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   みことば黙想

〈50〉死に至る罪と死に至らない罪について

聖書

16もしだれかが死に至ることのない罪を犯している兄弟を見たら、神に願い求めなさい。そうすれば神は、死に至ることのない罪を犯している人々には、いのちを賜わるであろう。死に至る罪がある。これについては、願い求めよ、とは言わない。17不義はすべて、罪である。しかし、死に至ることのない罪もある。ヨハネの第一の手紙 5:16,1

4いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、5また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、6そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。 7たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。8しかし、いばらやあざみをはえさせるなら、それは無用になり、やがてのろわれ、ついには焼かれてしまう。 ヘブル人への手紙6:4-8

 ★すべてのキリスト者は自分のために、また、すべての隣人(主にある兄弟姉妹、親族、友人知人)のために毎日祈っています。

 ★彼らが、未信者であるなら、何とかして唯一の救い主キリストを信じて救われるように祈っているし、信者で聖書に背く何らかの過ちに陥って、あるいは陥ろうとしているのを見れば、彼らが主のもとに立ち返るように、み言葉によって警告し(ローマ15:14)、彼らのためにとりなしの祈りを捧げます

 ★その場合、ここで言う死に至る罪と死に至らない罪とはどう違いがあるのでしょうか。上記の1ヨハネ5:17にあるように、不義はすべて罪であり、「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)なら、上の二つの罪の違いはどこにあるのでしょうか。

 ★二つの罪の実例を聖書の中に求めて考えて見ましょう。まず、主イエスの直々のとりなしによって罪赦されたペテロの場合(ルカ22:31,32)を考えます。

 ★ペテロは主イエスがユダヤ人に捕らえられた時、人々の前で「私は彼を知らない」と三度も断言しました。自分がキリスト者であることの完全否定です。

 ★このペテロの大罪を主イエスは赦されました。彼の懺悔の涙に真の悔い改めをご覧になったからです。

 ★他方、ペテロと同じくキリストの12弟子の一人イスカリオテのユダは、主イエスを銀貨30枚で敵の手に売り渡しました(マタイ26:15)。

 ★主イエスが十字架の死刑に定められた時、自分の罪の大きさに気づき、銀貨を全額返還したものの、良心の呵責に耐え切れず自害しました。

 ★このユダは赦されるために直接主のもとに行き赦しを乞うことなしに、自分で自分に対する死刑を執行しました。罪の赦しの根源である主のもとに戻らなかったユダは死に至る罪を犯した人々の中の一人となりました。

 ★旧約聖書の中の実例では、ダビデ王がいます。「小人閑居して不善を為す」という日本の諺がありますが、小人ではなくユダヤの偉大な王であるダビデが暇な時期に(サムエル記下11:1)サタンの誘惑に負けて姦淫と殺人の大罪を犯すに至りました(サムエル記下11)。世の小人に限らずキリスト者と言えども、サタンとこの世と自分の肉という敵に対して油断は禁物です。

    ★自分と国家の罪を糾弾する主の預言者を憎んで投獄したり、死刑に処したりするユダヤの王たちの中で、ダビデは自分の罪をたとえ話を用いて鋭く指摘してくれた預言者ナタンの前に首をうなだれて、罪を認め主のもとに立ち返りました(サムエル記下12:1−15)

 ★旧約聖書の中のもう一人の人物、預言者とも、占い師とも呼ばれているバラムは「いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わいながら、そののち堕落した者」の実例です。

 ★預言者バラムは御霊による神との交わりをもち、神からの直接啓示を受け、来るべき世の力を味わっていましたが、神と富とに兼ね仕える二心の人物でした

 ★彼バラムはモアブの王バラクからの神の民イスラエルを呪ってほしいという仕事の依頼を実現するために、秘策としてイスラエルを偶像礼拝に誘う計画を実行し、イスラエルに神の裁きを招くことに成功しました(民数記25:1−9;民数記31:16;ヨハネ黙示録2:14)が、後に占い師バラムとしてイスラエルの手で処刑されました(ヨシュア13:22)。
 ★このバラムはマタイ7:21−23で主イエスが預言しておられる偽キリスト者、死に至る罪を犯すキリスト者のモデルでありひな形です。


 15にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。 16あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。 17そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 18良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。   

19良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。20このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。

  21わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。22その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。23そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。マタイによる福音書7:19- 23

 ★Tヨハネが言う死に至る罪とは、上記へブル6:7,8やマタイ7:1520に明記されているように、主が信徒に求めておられる良い実を結んでいない実質の伴わない名だけのキリスト者の生きざまであることが分かります。

 ★では、そのよい実とは何を指しているのでしょう。牧師・伝道者でいうなら、多くの人々を救いに導き、世界一の大きな教会を設立することでしょうか。一般信徒でいうなら教会での奉仕を無難にこなし、皆の前で立派な祈りや証を語り、献金にも伝道にも励むことでしょうか。家族を皆キリストに導くことでしょうか。聖霊の賜物を発揮することでしょうか。

 ★そうではなく、キリスト者として良い実を結ぶとは、そういう行いの前に御霊の実を結ぶことです。キリスト者としての品性をそなえること、キリストに似た者になること、キリストにある大人・成人になることです。この御霊の実を結んでいない者が」上記の様な実績を上げても、主に認められず、喜ばれないのです。

 「たといわたしが、人々の言葉(新改訳は「異言」)や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである   たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である

:Tコリント 13:1-3

 ★その御霊の実のことを聖書が何と言っているか見ましょう。

22しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、23柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。24キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。ガラテヤ人への手紙5:22-24

 ★聖霊のバプテスマの恵みにあずかり、九つの御霊の賜物を味わっているカリスマ派教会の牧師信徒がそうでない教会の人たちより御霊の実を豊かに結んでいるかというと、残念ながらそうではありません。聖霊の賜物を誇っていたコリント教会に不品行な信徒がおり、教会がその人物を除名することなく大目に見ていた状態が物語る通りです。聖霊の賜物に恵まれた教会の牧師や信徒には、そうでない一般の教会の牧師や信徒に対するより、より一層のサタンの攻撃があるためだと考えられます。

 ★人より恵まれた賜物をもつことを許された者は、人より一層へりくだらなければ、滅びの道に転げ落ちることになります。

 ★そういう訳で、死に至る罪とは、キリスト者でありながら、キリストを人生の目標とした生き方を無視し、神の言葉の警告や人の忠告に耳を貸さず、御霊の実を結ぶことなく、神と富とに兼ね仕えている人々の生き方のことであると言えます。

 ★そして、死に至らない罪とは、ダビデとペテロの罪のように、悔い改めと赦しという、神の幸いな取り扱いを受けた人々の罪とこれに類する人々(主イエスと一緒に十字架にかかった二人の強盗の一人で悔い改めて救われた人など)の罪のことであると言うことができます。



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キリスト紀元2016年 8月 6日公開


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