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     メッセージ

〈48〉
姦淫の現行犯逮捕された女を無罪放免された主

聖書

 11イエスはオリブ山に行かれた。2朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。
 3すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、4先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。5モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。6彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
 7彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。8
そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
 9これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。 10
そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。11女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。 ヨハネ8.1−11

 T、姦淫の現行犯逮捕された女が主のみ前に連れてこられた

 ★聖書の写本の中には、このエピソードを記しているものと、省略しているもの、或いはヨハネの後半に記しているもの、ルカの福音書内に書かれているものなどがあり、古代キリスト教会の教父の中には、この話はキリストの話としてはふさわしくないとして、聖書の正統な記事として認めていない人もいます。しかし、記事の内容そのものが主イエスの言動としてふさわしいとして、大多数の写本に残されているので、このエピソードを主イエスの物語の真正な一部として学びたいと思います。

 ★パリサイ人や律法学者が姦淫の女を連れて来たのは、6節がハッキリ言っているように「主イエスをためして」告発する理由を手に入れるためでした。

 ★ある時、彼らはヘロデ党の者たちと手を組んで、「カイザルに税金を納めることは律法にかなっているのかいないのか」と質問してきました。主は彼らの悪意を見抜いて、「納入金を見せなさい。」と言って、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。」と答えて彼らをギャフンと言わせました(マタイ22:15−22)。

 ★ヨハネ8:1−11のこの女は夫がいるのに他の男と交わったのか、または一人の男と婚約中であったのに別の男と交わったかのどちらかです。いずれにしても、その罪が事実であったことについては、すべてを見通しておられる主が異論を唱えておられません。

 ★しかし、姦淫の現行犯を捕らえることは非常に難しいことで、その目撃証言を真実と認定することも更に困難です。

★ですから、この女が現行犯逮捕されたのは、パリサイ人が主イエス告発のチャンスを掴むために、予め計画して女を罠にはめた可能性があります。

 ★しかも、姦淫の罪は女ひとりで犯す罪ではなく、相手の男が必ずいるはずです。レビ記20:10には「人がもし他人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も二人共、必ず殺されなければならない。」とあります。

 ★ですから、女だけを連れてきて「この女を石打にすべきか否か。」と質問を吹っかけて来るのは、全く片手落ちです。

 ★主イエスを訴える口実を掴むため、たとえ姦淫の女とはいえ、人間を道具のように、物のように扱う彼らのやり方は、可成りあくどいと言わざるを得ません。

 ★6節の後半に「しかし、主イエスは身をかがめて地面に書いておられた」とあります。何を書いておられたかは説明が無いので分かりません。ただ言えることは、パリサイ人らの魂胆を見抜いておられた主は彼らを無視しようとされていたことだけは確かです。

 ★しかし、あくまでも、彼らがしつこく問い続けて止めなかったので、主は身を起こして言われました。

U「あなた方のうち罪の無い者が最初に石をなげなさい」

 ★上記の主のことばにパリサイ人らがひとり、ふたりと主の御元を立ち去っていったことについて考えて見ましょう。

 ★私たちキリスト者は新約聖書を読むことによって、人間の生来の罪についてよく知っています。しかし、行いによって救われると信じていたパリサイ人が自分たちの罪の性質を十分わきまえていたでしょうか。

 ★マタイ19:16−22に、金持ちの若い役人の話が出ています。彼は、人が救われるのは行いによると信じていたので、「永遠のいのちを得るためには、どんな善い行いをしたらよいのでしょうか。」と主イエスに尋ねています。主が十戒の教えを語ると、「そのようなことはみな守っております。他に何かかけたものがあるのでしょうか」と問います。

★主は彼に自分の罪の性質を悟らせるために、「あなたの全財産を売り払って、それを貧しい人びとに分け与えて、そして私について来なさい。」と言われました。

★そのことばを聞いて、その若い役人は悲しみながら去って行きました。大金持ちで、財産を手放すことが出来なかったからです。

★使徒パウロも、十戒の最初の九つの戒めを自分は守っていると思っていましたが、第十番目の戒め「むさぼってはならない」を聞くに及んで、自分には貪りの罪があることに気づきました(ローマ7:7−25)。

★ですから、「罪のない者が最初に石を投げなさい。」と言われて彼らが去って行った理由は、彼ら自身の生来の罪の性質を自覚したからではなく、彼らがこの女を道具として使って主を罠にはめようとしていた自分たちの悪巧みを見破られ、主のみ前で恥じ入り、白旗を掲げて逃げて行ったと見るべきだと思います。

★年配者が先に出て行ったのは、女性を利用した目の前の罪と共に、自分の心の底にある罪の性質を若者よりは分かっていたからでしょう。

V、「わたしもあなたを罪に定めない」

★主が女性に「あなたを罪に定める者はいなかったのですか」と尋ねると女性は、「主よ、だれもございません」と答えています。この女性の答の「主よ」ということばを新改訳は省いています。このことば「主よ。(ギリシャ語=キュリエ)」は原典のギリシャ語聖書にハッキリ書かれています。

★口語訳も文語訳も新共同訳もKing James Version を始め、筆者の手元に有るほとんどの英語聖書もこの語「主よ(LordまたはSir)」を訳出しています。新改訳だけが省いているのは残念です。

★この女性の「主よ」ということばに、主に対する、この女性のへりくだりと信仰がこめられています。罪の人生の最後の最後に悔い改めて信じた、十字架の二人の犯罪人のひとりのように、この女性も石打の刑直前に悔い改めて主イエスを信じて救われました。

11節で主は「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」とこの女性を諭されました。

★この女性は自業自得とは言え、パリサイ人らに公衆の面前に連れ出され、隠しようもない罪をさらけ出され、石打の刑を人々の手から受けることを覚悟していました。

★しかし、主の寛大な処置によって「私もあなたを裁かない。今後は、罪を犯さず、まじめに清く正しく生きて行きなさい。」と人々の前で無罪放免されました。

★パリサイ人がこの女性を主のもとに連れて来たのは、モーセの律法に従ってこの女を裁くか、或いはこの女に哀れみを示してモーセの律法を破るか、二つに一つを選べと主に迫るためでした。

★彼らは主イエスを裁判官に仕立てたかったのです。ルカ12:13.14に親の遺産を巡る兄弟との争いの仲裁を主に求めて来た人の話が出ています。この願いを聞かれた主は答えて言われました。「一体誰が私をあなた方の裁判官や調停者に任命したのですか」と言って、貪欲の罪に警戒するように命ぜられました。

★ヨハネ12:47で主は

「私は世を裁くために来たのでなく、世を救うために来たのです。」

と言われました。今天におられる主はもう一度世に来られます。その時こそ世を裁くために来られます。

★しかし、最初のクリスマスに世に来られて以来今日まで、裁きのためでなく、罪と裁きからの救いのために世の全ての人々を招いておられます。

「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である。」Uコリント6:2

★ですから、現行犯逮捕の女性のエピソードは決してなくてもいい無駄な話ではなく、世の私たち罪人を救うために来られた主イエスの姿を如実に写し出す、なくてはならないエピソードだったのです。

★我らの主は取税人や遊女の友と言われるほど、人びとに蔑まれていた取税人や遊女に目をかけ、悔い改めと救いに導かれた憐れみ深い主であることは、何と有難いことでしょうか。

★私たちは、この世にいる間は、罪に陥りやすい愚かな弱い者たちです。この私たちのそばにいて、いつも助け祈りに答え守って下さる主がインマヌエル(「主はわれらと共におられる」の意)であることは何と幸いなことでしょう(マタイ1:23)。


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キリスト紀元2017年 2月 12公開

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