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     メッセージ

〈49〉災難と罪

聖書

1イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。 2弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。 3イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。 4わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。 5わたしは、この世にいる間は、世の光である」。 6イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、 7「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。 8近所の人々や、彼がもと、こじきであったのを見知っていた人々が言った、「この人は、すわってこじきをしていた者ではないか」。 9ある人々は「その人だ」と言い、他の人々は「いや、ただあの人に似ているだけだ」と言った。しかし、本人は「わたしがそれだ」と言った。 10そこで人々は彼に言った、「では、おまえの目はどうしてあいたのか」。 11彼は答えた、「イエスというかたが、どろをつくって、わたしの目に塗り、『シロアムに行って洗え』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました」。 12人々は彼に言った、「その人はどこにいるのか」。彼は「知りません」と答えた。
13人々は、もと盲人であったこの人を、パリサイ人たちのところにつれて行った。14イエスがどろをつくって彼の目をあけたのは、安息日であった。 15パリサイ人たちもまた、「どうして見えるようになったのか」、と彼に尋ねた。彼は答えた、「あのかたがわたしの目にどろを塗り、わたしがそれを洗い、そして見えるようになりました」。 16そこで、あるパリサイ人たちが言った、「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないのだから」。しかし、ほかの人々は言った、「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか」。そして彼らの間に分争が生じた。 17そこで彼らは、もう一度この盲人に聞いた、「おまえの目をあけてくれたその人を、どう思うか」。「預言者だと思います」と彼は言った。 18ユダヤ人たちは、彼がもと盲人であったが見えるようになったことを、まだ信じなかった。ついに彼らは、目が見えるようになったこの人の両親を呼んで、 19尋ねて言った、「これが、生れつき盲人であったと、おまえたちの言っているむすこか。それではどうして、いま目が見えるのか」。 20両親は答えて言った、「これがわたしどものむすこであること、また生れつき盲人であったことは存じています。 21しかし、どうしていま見えるようになったのか、それは知りません。また、だれがその目をあけて下さったのかも知りません。あれに聞いて下さい。あれはもうおとなですから、自分のことは自分で話せるでしょう」。 22両親はユダヤ人たちを恐れていたので、こう答えたのである。それは、もしイエスをキリストと告白する者があれば、会堂から追い出すことに、ユダヤ人たちが既に決めていたからである。 23彼の両親が「おとなですから、あれに聞いて下さい」と言ったのは、そのためであった。
24そこで彼らは、盲人であった人をもう一度呼んで言った、「神に栄光を帰するがよい。あの人が罪人であることは、わたしたちにはわかっている」。 25すると彼は言った、「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲であったが、今は見えるということです」。26そこで彼らは言った、「その人はおまえに何をしたのか。どんなにしておまえの目をあけたのか」。 27彼は答えた、「そのことはもう話してあげたのに、聞いてくれませんでした。なぜまた聞こうとするのですか。あなたがたも、あの人の弟子になりたいのですか」。28そこで彼らは彼をののしって言った、「おまえはあれの弟子だが、わたしたちはモーセの弟子だ。 29モーセに神が語られたということは知っている。だが、あの人がどこからきた者か、わたしたちは知らぬ」。30そこで彼が答えて言った、「わたしの目をあけて下さったのに、そのかたがどこからきたか、ご存じないとは、不思議千万です。 31わたしたちはこのことを知っています。神は罪人の言うことはお聞きいれになりませんが、神を敬い、そのみこころを行う人の言うことは、聞きいれて下さいます。 32生れつき盲であった者の目をあけた人があるということは、世界が始まって以来、聞いたことがありません。 33もしあのかたが神からきた人でなかったら、何一つできなかったはずです」。 34これを聞いて彼らは言った、「おまえは全く罪の中に生れていながら、わたしたちを教えようとするのか」。そして彼を外へ追い出した。
35イエスは、その人が外へ追い出されたことを聞かれた。そして彼に会って言われた、「あなたは人の子を信じるか」。 36彼は答えて言った、「主よ、それはどなたですか。そのかたを信じたいのですが」。 37イエスは彼に言われた、「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である」。 38すると彼は、「主よ、信じます」と言って、イエスを拝した。 9そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。 40そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲なのでしょうか」。 41イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
ヨハネによる福音書9:1−41

T. 災難と罪

 ★生まれながらの盲人に出会う直前、主はパリサイ人らの前で、「アブラハムの生まれる前からわたしはいる」(8:58)と言われ、ご自分が三位一体の第二位格の子なる神であることを宣言なさって、パリサイ人らに石打ちにされるところを逃れて来られたばかりでした。私たち普通の人間であれば人のことをおもんばかる余裕はありませんが、主は違います。パリサイ人の危険を避けて来られたばかりなのに、自ら進んで彼らの敵対心を刺激することになる新たな行動に出られました。

★それは道端に座っていた盲人の物乞いに目を留められ、彼を憐れまれ、その両目を見えるようにしてあげようとの思いを懐かれたことです。

★主がこの盲人に目を留められた時、弟子たちはそれに気づいて主に質問しました。「彼が盲人に生まれ付いたのは、誰が罪を犯したからですか、この人ですか、彼の両親ですか」。

★人は誰かに不幸が及ぶと、その人か親かの罪のためそうなったと考えがちです。旧約聖書のヨブの場合も彼の罪のために自分や家族に災いが降りかかったのではなくサタンが神様の許可を得て、ヨブの信仰を試すためでした。

★しかし、ヨブの友人たちはヨブの災難を見て、これはヨブが何か特別な罪を犯したために相違ない、とヨブを疑いました。

★原発事故で被災し避難して来た人々が避難先でいじめを受けている事実は、被災者が賠償金を受けているからだけでなく、いじめる側の人々の心の奥に、「彼らに何らかの落ち度があったから、あんな大きな災難に見舞われたに違いない」という、全く言われない根拠のない屁理屈から生まれた先入観が存在したためと見て間違いないでしょう。

★我が国には原発が54基もあります。そのどれもがいつ事故を起こしてもおかしくない状況にあると言います。すなわち、日本国民の誰もが、いつでも原発避難民になりかねない状況にあるのです。いじめっ子たちは愚かにも明日の自分をいじめているのです。原発について全国民が知っておくべきこと

★主の弟子たちも、その物乞いが生来の盲人であることを知って、やはりこの人か親が罪を犯したため、彼はこのような不幸に見舞われているのではと考えていたようです。

★これに対して主イエスは、「この人が罪を犯したためでも、両親が罪を犯したためでもなく、神の業がこの人の上に現れるためである。」と言われました(3節)。

★この人が生まれる前に罪を犯した為などという考えは、今の私たちには思い浮かべることすらない考えですが、昔から輪廻(りんね)という思想がいつの時代にもどこにも存在していたようです。金田一京助の国語辞典によると、輪廻というのは、「すべての魂は転々と他の肉体に移り、巡り、永久に滅びないという考え」だそうです。

★従って、この人の前世の魂が罪を犯したためなのかと、弟子たちは質問したわけです。主は彼らの考えを否定なさって、この人の不幸は彼の身の上に主の御業がなされるためだと言われ、その人の目に泥を塗っていやされました。この主の癒しの業については、すぐ後で取り上げますが、その前に、主が4節でいわれた、みことばを学びます。

U.「私たちは、主の業を昼の間に行わなければなりません。」

★昼の間というのは、主イエスにとっては、十字架と復活を経て天に帰られるまで、この世に居られる間ということになります。私たちキリスト者にとっては、キリスト者としてこの世に生かされている間ということになります。

★主イエスは公生涯の約3年半の間寸暇を惜しんで、父なる神から託された任務を果たし続けられました。ですから、パリサイ人たちの投げる石を避けて逃亡中にも拘らず、その道すがら道端の盲人の物乞いに目を留められ、彼に対する憐れみの業を成し遂げられたのでした。

★盲人の目を開け、ライ病を癒し、悪霊づかれを解放することは、主の重要な任務の一つですが、何より大事な主の務めは、人々を罪の縄目から解き放し、罪の奴隷状態から解放すること、霊的死からいのちへの根本的な救いです。

★罪の真っ暗闇の世界から神の義と聖めの光の世界への救いこそ主イエスの第一義的任務でありました。暗闇の世界から光の世界への人類の救いの御業を象徴する働きとして主は生まれながらの盲人の目を開ける癒しの奇跡を行われました。

★盲人が盲導犬を連れて歩いていながら、駅のホームから転落して電車に轢かれる痛ましい事故が相次いで発生していますが、このような事故によって目が見えないことの不幸を健常者は多少わきまえている積もりではいますが、その苦労・苦難は健常者の想像を絶するものあると思います。

★筆者も高齢者となってから目の病気(加齢黄斑変性症)を発症して、目の重要性と目が見えることの有り難みの一端を味わっていますが、健康な目を与え今日まで自由に使わせていただいた事を主に感謝しております。

★さて、目が見えない暗黒の世界に生きることの不幸については多少理解できている人間も、霊的暗黒の世界に生きる不幸については余りよく分っていません。肉体と精神の病気に重症と軽症の区別があるように、霊的暗黒の世界にも重症と軽症があります。暴力団のような犯罪者集団の世界や偶像礼拝諸宗教の世界は霊的暗黒の重傷者の世界ですが、キリストを信じない一般社会の人々の世界は霊的暗黒の軽症者の世界と言って良いでしょう。

★暴力団の人々の生活の悪質性、暗黒性については知っていますが、キリストを信じないで、神に背を向け、神のことば聖書を無視して生きる生活の悲惨さについては人々はほとんど気が付いていません。

★主イエスが語られた「愚かな金持ちのたとえ」の主人公の様に、キリストを信じていない世の一般人は、お金で買える楽しみに心を奪われて、刹那的歓楽の世界に満足し、キリストによってのみ得られる永遠のいのちとそれに伴う心の平安と喜びを知りません。裸で生まれて来て、裸で世をさらなければならない真実を無視し、永遠の滅びに向かって暴走しています。

V.主イエスは泥で生来の盲人の目を開けられた

★主イエスはダマスコ途上のサウロの前に現れて、迫害者サウロを使徒パウロに生まれ変わらせた時、パウロに言われました、「わたしが、ユダヤ人と異邦人の中からあなたを救い出し、あなたを彼らのもとに遣わすのは、彼らの目を開き、彼らを闇から光へ、悪魔の支配から神のもとへ帰らせ、彼らが罪の赦しを受け、私を信じる信仰によって聖別された人々に加わるためであっる。」(使徒26:17,18)。

★盲人の目を開けることは、主イエスの大事な使命の一つです。主は地面につばきをして、そのつばで泥を造って、それを盲人の目に塗って、「シロアム(遣わされた者=キリストの意)の池で洗いなさい」と言われました。

★主が最初の人間アダムを造られた時、同じく泥を用いられました。主イエスはこの時泥を用いて死んだ目を生きたものとされました。

★主が泥を目に塗った時、目蓋に塗られたと筆者は理解していましたが、注解書の一つが眼球そのものに塗りつけたと解釈しているのを読んで、原語ギリシャ語からはそういう解釈も可能だと思いました。

★眼球に直に塗りつけるより、目蓋に軟膏のように塗るほうが穏やかな方法だと思いますが、しかしどちらにしても人間の常識的判断からして愚かと見える方法です。しかし、

「十字架のことばは滅び行く者には愚かであるが、救いに与る私たちには神のちからである」Tコリント1:18

★主はことばだけで癒すことも、泥を使わず盲人の目に手を置くだけで癒すこともお出来になりましたが、主はこの人に対しては泥を塗る方法を取られました。

★一つには、この人の方から求められた癒しではなく、主イエスの一方的憐れみの心から出た業であったので、主はこの人の信仰から出る行動という応答を求められたからです。

★「行ってシロアムの池で洗いなさい。」と命ぜられて、彼が従順に従って、主のことば通り実行した時、彼の両目は開き、闇の世界から光の世界へ移されたのでした。

★この人は畑を掘っていてそこに宝が埋められていたことを発見した人のように、求めていなかった宝を発見した人のひとりとなりました(マタイ13:44,45 主イエスのたとえ話≪12≫畑に隠された宝のたとえ

 ★この人は自分の前に立ち止まって話をしていた主と弟子たちとの会話に施しの期待も込めて、興味と関心をもって聞き耳を立てていたことでしょう。

★そして、主の「この人に神の業が現されるため」というお言葉に心を留め、これはどういう意味かと思い巡らしていたに違いありません。

★「罪人かどうか知らない」(25節)と言っていた位、主イエスについて何も知らない状態でしたが、微かな期待をもって言われた通りシロアムの池に行って洗うと、突然闇の世界から光の世界へ救い上げられて、彼はことばにならない感動に酔いしれたと思います。

★彼はユダヤ人の度重なる高圧的尋問を受け、自分の身の上に起きた驚くべき出来事を包み隠さず、ありのままに証言を繰り返すうちに、彼の心に信仰が芽ばえ、霊の目が徐々に開かれて行きました。

★初めは「イエスという名の人」から「預言者」に、そして主の方から彼を探し当て、彼の前に姿を現してくださり、ご自身を啓示してくださったことによって、「人の子」(キリスト)として主を礼拝し、救いが成就するに至りました。

★彼は自分を癒してくださったお方を「預言者」と思うと告白しただけで、「イエスを主キリスト」と告白する(これがユダヤ教の破門の条件でした)前にユダヤ教会を破門されてしまいました(34節)。

★エルサレムの道端の物乞いだった生来の盲人が、自分の目を開けてくださった主イエスの御業を大胆に証し続けるうちに彼の心に主イエスへの信仰が芽生え、主ご自身を開かれた目で目撃し、主の啓示を受けて信仰告白と救いに至りました。

★これは初代教会の名も無きキリスト者の立派な証しです。彼は、当時強力だったユダヤ教会から追放されましたが、迫害の中で彼の信仰と霊性はますます大きく成長して行ったことでしょう。

★主は4節で「私たちは私を遣わした方の業を、昼の間に行わなければなりません」と言われることにより、主イエスの業すなわち人々の救いの業は、同時に私たちキリスト者の業でもあることを明確にしておられます。私たちも主にならって、生きる限り主イエスの証し人でありたいと思います。


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キリスト紀元2017年 3月 16日公開


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