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   主イエスのたとえ話

  
〈24〉新しいぶどう酒と古い皮袋のたとえ─断食の効用


聖書
 ★「33また彼らはイエスに言った、『ヨハネの弟子達は、しばしば断食をし、また祈りをしており、パリサイ人の弟子達もそうしているのに、あなたの弟子達は食べたり飲んだりしています』。
 ★34するとイエスは言われた、『あなた方は、花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食をさせることが出来るであろうか。 35しかし、花婿が奪い去られる時が来る。その日には断食をするであろう』。
 ★36それからイエスは、また一つのたとえを語られた、『誰でも、新しい着物から布切れを切り取って、古い着物に継ぎを当てる者はいない。もしそんなことをしたら、新しい着物を裂くことになるし、新しいのから取った布切れも古いのに合わないであろう。
 ★37また誰も、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、新しいぶどう酒は皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒は流れ出るし、皮袋も無駄になるであろう。 38新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れるべきである。
 ★39また誰も、古い酒を飲んでから、新しいのを欲しがりはしない。『古いのが良い』と考えているからである」。 
ルカ5:33〜39


はじめに
 ★パリサイ人の断食は人に自分の信心深さを見せるためのものであり、同時に自己満足のためのものでした。
 ★これに対して、主の教えられる断食は、隠れたところで見ておられる父なる神にだけ見て頂く、祈りと合体したものでした。主が十字架にかかる前には弟子達は断食をすることはほとんどありませんでした。
 ★しかし、たとえ断食しても主が教えられたものは普段着姿の隠れた断食ですから(マタイ6:16〜18)、パリサイ人にも誰にも知られることはなかったでしょう。ですから、パリサイ人が主の弟子達の断食姿を目撃できなかったのも当然です。

T.解説
 ★断食と言う新約聖書ギリシャ語の意味は、日本語と同様、「食べないこと」ですが、旧約聖書ヘブル語の意味は「魂を苦しめる」「自己を否定する」
(レビ記16:29)という意味になります。
 ★この断食を祈りと合体させることによって、祈りの内容に命をかける真剣な姿勢を神様に伝えることになります。

U.断食をめぐる3つのたとえ
1.婚礼での花婿と客(新改訳/花婿に付き添う友達)のたとえ

 ★婚礼の祝いの最中に、客や花婿の友人たちに断食をさせることが相応しくないように、花婿であるキリストが一緒にいる間、キリストの弟子達が断食するのは相応しくないことです。しかし、花婿キリストが取り去られる日、つまりキリストが十字架に掛かる日、その時には弟子達は断食をするだろうと主は言っておられます。

 ★
「花婿の友人である私は、花婿であるキリストの声を聞いて、大いに喜んでいる。彼キリストは必ず栄え、私は衰える」 (ヨハネ3:29,30)

 と言っていたバプテスマのヨハネの弟子達がパリサイ人と一緒になって「我々が断食しているのに、あなたの弟子達が断食しないのは何故か」と問いただしているのは残念な事です(
マタイ9:14)
 ★バプテスマのヨハネは初めの頃「見よ、神の子羊」と自分の弟子達に主イエスを紹介し、引き合わせていたように
(ヨハネ1:35〜42)、自分の弟子達をキリストのもとに送った後、自分もキリストに弟子入りするべきでした。ところが、別なキリストの出現を待っているかのように(マタイ11:2,3)、バプテスマのヨハネ一派として留まっていたために、自分の弟子達をイエスとその弟子達を批判するパリサイ人の側に立たせる結果になってしまいました。
 ★「私の味方でない者は、私に反対する者であり、私と共に集めない者は、散らす者である」
(ルカ11:23)と言う主イエスのみことばが役目を終えたバプテスマのヨハネの身の処し方の不適正さの故に弟子達をキリストの敵の側に回してしまいました。

2.新しい着物から切り取った布切れで古い着物に継ぎ当てをするたとえ
3.新しいぶどう酒と古い皮袋のたとえ

 ★主イエスの福音をユダヤ教と折衷させ、縫い合わせたり、ユダヤ教という古い皮袋の中に注入を試みたりしたら、キリストの福音もユダヤ教も共倒れになるだけだ、主イエスの福音という新しいブドー酒はキリスト教会という新しい皮袋に入れる必要がある、と主はいわれるのです。

V.主イエスと断食
 ★主イエスは、「断食が古い皮袋であって無用の長物である」とは、決して言っておられません。しかしこん日、断食がキリスト教会の中で余り重んじられていないのは、断食というものが正しく理解されていないためだと思われます。
 ★公生涯を始めるに当たり、主は40日40夜の断食をご自身が実行され、山上の説教では「断食をする時にはこうやりなさい」と断食の作法を教えておられます
(マタイ6:16〜18)
 ★その教えの意味するところは、パリサイ人のように断食を人に見せるためではなく、隠れた所で見ておられる神に見ていただくために、祈りと合わせて、祈りの一環また補助手段として自発的に行いなさい、ということです。
 ★この主の教えの中で注目すべき点は、
隠れた所で見ておられる主が、この断食と祈りに報いてくださるという点です(マタイ6:16〜18)。きよい心から出た断食と祈りは主の心を動かす力をもつと言う事です。断食と祈りが合体した時、それは強力な祈りとして主が受け入れてくださると言うことです。
 ★また、悪霊追放の際、困難な場合は、「祈りと断食によらなければ」成功しないと主は教えておられます(マルコ9:29/主要な写本が「断食」の語を欠いていますが、使徒13:3で初代教会の信徒たちが〈断食と祈りをして使徒たちを伝道に送り出した〉とありますから、「断食」の語を加えた方が自然です)。

W.聖書の中での断食
 
a.旧約聖書の中の断食
 ★イスラエル民族全員が守るべき断食は、年に一回だけ第7の月の10日の「あがないの日」に行うように律法に規定されています
(レビ16:29)。皆が一斉に守るべき断食は、この一日しかありません。
 ★ところが、その後コケのように生えてきた言い伝えによって、新約時代のパリサイ人のように週2回断食する人々が出てきました。
 ★旧約聖書の民は、自分達の罪のために神から来る災難によって懲らしめられた時、悔い改めのしるしとして、断食と嘆きと祈りによって神のもとに立ち返りました。

 
「主は言われる、『今からでも、あなた方は心を尽くし、断食と嘆きと、悲しみとをもって私に帰れ。あなた方は衣服ではなく、心を裂け』。あなた方の神、主に帰れ。主は恵みあり、憐れみあり、怒ることが遅く、いつくしみが豊かで、災いを思い返されるからである」 (ヨエル2:12,13)

 
b.新約聖書の聖徒たち
 ★前述したように、使徒13:3で初代教会の信徒たちは「断食と祈りをして使徒たちを伝道に送り出し」ております。
 ★使徒パウロは「自分が失格者にならないように、自分のからだを打ちたたいて従わせている」(1コリント9:27)と言っておりますが、その自分の身体を打ちたたく手段の一つが断食でした(Uコリント6:3〜10)

X.パリサイ人の断食
 ★ルカ18:12の「パリサイ人と取税人のたとえ話」の中で、パリサイ人は、「週に2回断食していること」を自慢しております。その2日は月曜日と木曜日でした。この両日にエルサレムの町で市場が開かれ、周辺の町々、村々から買い物客が大勢集まって来ました。パリサイ人は、この人々に自分が断食しているところを見せるために、自分の顔を見苦しくし、髪の毛を乱し、荒布を着て人々の中を徘徊していました。彼らの断食は神に見て頂くためではなく、人から敬虔な、信心深い人と見られたいがため、人に見せるためのものでした。
 ★これに対して、主は断食は人には断食をしていることが分からないように、普段と変わらない姿で実践しなさいと教えて居られるのです
(マタイ6:16〜18)
 ★旧約聖書には戦場の兵士達が兵役を普段通り果たしながら、断食をした(と言うよりさせられた)記事があります(
Tサムエル14:24)

Y.断食の効用
 ★誰でも、食事を抜くことによる空腹感と苦痛を多少は知っているので、断食を毛嫌いします。そのため、聖書を素直に読めば、断食を禁止したり、否定したりしていないことが分かるのに、あたかも聖書には断食の教えが無いかのような生活を、今のクリスチャンたちは送っています。
 ★主はパリサイ人のように断食をしていることを人に知らせたり、自慢したりしてはならないと言われるので、筆者は自分が聖書が言う「断食と祈りの合体した正規の断食」をしたことがあるかどうかについては、ノーコメントといたします。
 ★ここでは、聖書の言う断食ではなく、世間の人々もやる断食について、一言述べます。断食と言うものを全く知らない人にそれがどういうものかをお知らせし、聖書的断食祈祷実践の際に役立ててもらいたいからです。

 
a.筆者の医療断食体験
 ★改革派の和歌山伝道所で伝道をしていた30歳前後の頃、独身の自炊生活による栄養の偏りのためか、かぜをこじらせて急性腎炎を患いました。病院でそう診断されたのです。
 ★急性腎炎が慢性に移行し重症になると、人工透析をしなければならなくなることを知っており、更に
急性腎炎には断食がよく効くという知識もありましたので、医療のための断食をする決心をしました。まず、病院から出された薬のすべてをゴミ箱に捨て、断食に関する本を十冊ほど買い込んだり、図書館で借りたりして、心と頭の準備をしました。
 ★幸い、一人暮らしでしたので、迷惑をかける家人がいなかったので、実行することは簡単でした。期間は勝手に2週間(14日)と決めました。後から考えれば3日〜7日でもよかったし、1週1日で7週合計7日でも良かったのですが、徹底的にそして早く癒されるために2週間としたのです。
 ★結果として急性腎炎は完璧に治りました。その2週間は普段の生活と何ら変わらない生活をしました。すなわち、寝るのは夜だけでした。毎晩よく眠れました
 ★断食に伴う特殊な体験をお話します。酷い空腹感は初めの3日位で、後はそれほど苦しくはありませんでした。頭がさえて読書のスピードが上がりました。
 ★断食終了後の食欲が異常に昂(こう)進し、食欲を抑えるのに大変苦労をしました。始める時は3日かけて食事を減らし、終わった後は4日位かけて元の食生活に戻しました。いきなり、元の生活に戻すと胃腸に甚大な負担がかかり、最悪の場合は死に至ることもあるそうです。
 ★断食の2週間は水だけの生活でしたので(水によって体内の毒素が洗い流し出される)、断食明けに口にした酸っぱいはずの梅干(今の梅干しは世間の嗜好が変わってきたため、甘味料を入れて甘酸っぱくしてありますが、その頃は本来の酸っぱい梅干が当たり前でした)が蜂蜜のように甘く感じました。
 ★また、断食明けの食事を取り始めてから約1週間の精神のすがすがしさはまた格別で、尿淡白が完全にマイナスになって病気が治った自覚も加わって、雲の上を歩いているような気分でした。
 ★その後、断食祈祷の予行演習の積りで、週1日の連続7週計7日断食をして見ました。気がついたことは、連続2週間断食と同様、最初の3日位がつらく感じられましたが、それが過ぎると比較的楽でした。1日断食の時も、次の日の気分がすこぶるさわやかで、その気分を味わうためにまたやりたいという気になります。
 ★以上筆者の自宅での単独断食体験をお話しましたが、自宅での25時間以上の断食は危険性もありますので、人様にはお勧めできません。

 
b.断食の医療効果
 ★断食に適する病気と適さない病気があり、断食が死につながる病気もありますので、ご注意ください。
 ★人間のからだには自然療能または自然治癒力と呼ばれる神様から与えられた回復力があります。断食することでこの力が強化され、病気によっては快方に向かうのです。
 ★野生動物が病気になると、食事を取らなくなるのは、自己治癒力を強化するための本能的自己治療行為なのです。
 ★どこかの知事さんたちが断食道場で断食なされたと聞いています。断食は自分ひとりでやるより、断食道場(経営・理念が健全で医療的支援の十分なところに限ります)でするのが一番安全です。

結び
 ★これからの世の中はいろんな意味で苦しい時代になりますので、神の御前に断食の祈りが必要になって来ます。それが求められる時、いつでも出来る用意をしておくことは大切だと思われます。



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キリスト紀元2006年 3月 10日公開

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