ゴスペル よい知らせ キリストをあなたに @31church.net
   主イエスのたとえ話


  
〈37〉大きく赦された人は大きく愛す

 聖書 
 36 あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。37するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、38泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。39イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」。

 
40そこでイエスは彼にむかって言われた、「シモン、あなたに言うことがある」。彼は「先生、おっしゃってください」と言った。41イエスが言われた、「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。42ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。43シモンが答えて言った、「多くゆるしてもらったほうだと思います」。イエスが言われた、「あなたの判断は正しい」。44それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。45あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。46あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。47それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。

 
48そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。49すると同席の者たちが心の中で言いはじめた、「罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう」。50しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。


 このたとえ話が語られた状況(主イエスの時代の食事の風景)

 ★シモンという名のパリサイ人(40節)から食事に招かれたのでおそらく主な弟子たちと食卓に着きました。会場は屋外庭園であった可能性があります。

 ★主の時代のユダヤの宴会風景は丸い大きな食卓の周りを、自転車の車輪のスポークのように敷かれたクッションの上に横になって食事します。36節の「(主は)食卓に着かれた」と訳されている言葉は、原語ギリシャ語では「食卓で横になられた」という言葉カテクリセー、英語に直訳すると、He reclined at the tableです。車のリクライン・シートの上のように横たわった状態を表しています。

 ★ですから、招かれざる客として当の女性が主の御足に接吻したり、香油を注いだり、溢れる涙を落としてそれを自分の髪の毛を解いてハンカチ代わりにして拭いたりすることができたのです。

 ★「取税人や罪人と食事をする」と人々から陰口をたたかれた主イエスは招かれれば何処でも誰の家でも気軽に出かけられました。このパリサイ人シモンは主イエスを「預言者」と信じる信仰さえ持ち合わせていませんでしたが(39節)、有名なナザレのイエスという人物がどんな人か是非食事を共にしてこの目で見てみたいという心境で招待したと思われます。

 ★パリサイ人や祭司長・律法学者といった民の有力者たちの大多数は主イエスに反感を抱いておりましたから、彼自身も仲間からイエスのシンパと見られたくないという思いが働いていたと思われます。それで主を家に迎える時、しもべに主イエスの足を洗わせるなどの当時の接客の並みの扱いさえ怠っていたようです。

この女性は他の福音書の中の女性と同一人物か

 ★ここでこの女性が、マタイ(マルコと同じ内容)とヨハネに登場する女性たちと同一人物かどうかについて触れておきます。

 ★マタイ26:6〜13(マルコ10:3〜9)の招待主は、名前は同じシモンでもこちらはライ病人シモンとなっていてルカのシモンとは別人です。また、こちらの女性は主イエスの足でなく頭に香油を注いでいます。そして、この食事の席での問題は、女の罪深さではなく、「そこで使われた香油は、売って貧しい人々の支援に回されるべきだ」という点でした。

 ★また、ヨハネ12:1〜11の家は主に死から蘇(よみがえ)らせていただいたラザロの家であり、その時の女性はラザロの姉妹で信仰深いマリヤでした。この時も話題はマタイ・マルコ同様「香油を売って貧しい人々に施すべきだ」という問題でした。

このたとえ話とその意味

 ★たとえ話は、50デナリと500デナリの二人の負債支払い不能者がいて、その二人共債権者に免除された場合、どちらがその債権者を多く愛するかという話です。

 ★このたとえ話を主がなさった訳は、その町で罪の女(おそらく売春婦)として知られていた人物から足に香油を塗られても拒まないこの客人は「預言者」でさえあるはずがない、とシモンが心の中で考えていたことを主が察知されたからでした。

 ★このたとえ話が教えていることは、一つは人の罪は神への負債だということです。アダムの子孫として生まれてきた人間は神のひとり子イエス・キリストを除いて全員もれなく罪人だということです。

★そして、二つ目にその罪の大きさには神の目にも人の目にも違いがあるということです。また、罪の大きさの判断において神と人とが常に一致するとは限りません。

★このたとえ話の二人の債務者は二人共支払い不能者でした。「500デナリ(約500万円)は別として50デナリ(約50万円)なら自分だったら返せる額だと思うが」と人は言うかもしれません。

★しかし、この話では二人共返済不能者と言われています。神に対する罪という名の借金は、誰も自力では返済出来ないのです。イエス・キリストの十字架の血潮という代価によらなくては誰も罪という借金は完済されないのです。

★罪の女の500万円の罪は彼女のキリスト信仰によって赦され、清められ、完済されました。しかし、パリサイ人シモンの50万円の罪は彼の不信仰の故にいつまでも赦されず、永遠に残るのです。

多く赦された者は多く愛し、少し赦された者は少ししか愛さない

 ★使徒パウロは迫害者サウロであった時、キリスト教会を迫害し、多くのキリスト者を投獄し、死に至らしめる働きをしていました。復活の主に出会って、改心した後、彼は昔を振り返って、「私は罪人の頭です」と供述しています。

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである(1テモテ1:15)

 ★パウロの立場に立てば、「わたしは、全人類を罪に定めた人類の父祖アダムほどの罪人ではない」、「家来の女房と姦通していながら、それを隠すためにその家来を人為的に戦死させたユダヤ国王ダビデほどの罪人ではない」と言い訳しようと思えば出来たかも知れません。しかし、パウロは人と比較することは一切せず、「自分ほど大きな罪を犯した人はいない。私は罪人の頭目である」と心底告白し、だからこそこの罪の女のように巨大の罪を赦された者として、誰にも負けない大きな愛をもって主を愛し、キリストの御名のためにローマで殉教の死を遂げたのでした。

結び

 ★シモンは、主イエスを「預言者」であることさえ疑っていましたが、自分が心で考え思っていたことを正確に見抜いて、的確なたとえ話で戒め、諭してくださったこの方こそ、ただの預言者ではなく、世に来るべきメシヤ・キリストだと信じて救われたかどうか不明です。

 ★主がこの元罪の女だった人に、「あなたの罪はゆるされた」、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」と言われた時、シモンを始め同席のユダヤ人たちは、「罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう」と心の中で論じ始めました。

 ★ユダヤ人はみな罪を赦す権威は神だけがもっておられることを知っていました。

 ★聖書の御言葉によって、イエス・キリストこそ罪からの唯一の救い主だと信じる人々は幸いです。


URL http://31church.net
キリスト紀元2015年 3月 21日公開

36