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    ローマ人への手紙講話

〈14〉きよめの道(3)キリスト者の内面の戦い

ローマ人への手紙7:7-25

7それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。8しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。 9わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、 10わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。11なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。 12このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。 13では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。 14わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。 15わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。 16もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。 17そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 18わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。19すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。 20もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 21そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。 22すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、23わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。 24わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。25わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。

講話

 ★前回、奴隷のたとえと婚姻のたとえによって、私たちキリスト者はキリストを信じた時点で、罪と死の法則から解放されて、キリストにあるしもべになったことを学びました。 

Ⅰキリスト者の内面の戦い

 7:6はこう言っています。

 「しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。

 ★御霊によって仕え、御霊によって歩む私たちキリスト者においては、古い人、肉の人はキリストの十字架と共に死んでいなくなったのかと思うとそうではなく、古い人、肉の人、肉の心はどっこい生きているのです。

 ★キリスト者の罪の赦し、義認はキリストの十字架の贖いによって完成していますが、キリスト者の聖め、聖化(きよめ)は義認と共に始まるのであり、聖化はこの世を去る時まで続くのです。15節の

 「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。」

 と言う、このパウロの言葉は、彼がキリストを信じる前の自分のことを言っているのか、それともキリスト者になった後の自分のことを言っているのか意見の分かれるところですが、著者パウロは現在形を使っており、聖書の他の箇所でも(コロサイ3:5-14,ローマ8:5-11)、キリスト者の心の中には肉の思いと御霊の思いとの葛藤・戦いがあることが記されていて、この15節のパウロの告白は、本書著作当時のパウロ自身の心の中の姿であることが分かります。

 ★神に反逆したアダムの罪の性質は、キリスト信仰によってキリスト者の心の中で、御霊の助けによって抑制され、弱められているとは言え、この世を去る日まで生き残っていて、私たちキリスト者の働きを妨害し、邪魔しようとします。

 ★キリスト教会が団体として、サタンと罪とこの世と戦わなければならないように、キリスト者個人としても、自分の心の中で絶えずこれらの敵と戦い続けなければなりません。

 ★アブラハムの子イサクの妻リベカの胎内で双子のヤコブとエサウが戦っていた様に(創世記25:21-24)、キリスト者の心の中での霊の人と肉の人との闘いは、地上で生きる限り続くのです。

 ★イスラエルがエジプトで430年暮らしていた時、エジプト王パロと神の選民との間に争いがあり、シナイの荒野では、モーセと不信仰な民との間に争いがあり、神の人ダビデとサウルの間に争いがあったように、地上に生きる限り、神の民は古い人・肉の人との間の絶え間ない争いを経験しなければなりません。

 ★パウロは十戒の第10の戒め「むさぼってはならない」(7-11節)によって自分の罪深さを知り、律法の下での死を経験しました。パウロは、主イエスの御前に来て、「永遠のいのちを得るために何をすべきですか」と尋ねた金持ちの若い役人のようでした(マルコ10:17-27)。

 ★この青年は、神の律法「十戒」を自分は全て完全に守っていると思っていました。しかし、自分には永遠の命の確信がなく、何が自分には欠けているのか知るために主のみもとにやって来ました。

 ★すると、主は答えて言われました、「永遠の命に入るためには、自分の持ち物を全部売り払って貧しい人々に施し、それから私に従って来なさい」。すると、その若者は、その言葉を聞いて悲しんで主のみもとを去って行きました。彼は大金持ちでその財産を手放すことが出来なかったからです。彼は自分が神を愛していると思っていましたが、「全財産を捨てよ」という主の命令に直面して、自分が神より富を愛していることを自覚させられました。

 ★パウロはこの若者と同様、「キリストの為に全財産を捨てよ」という命令に直面した時、自分が十戒を破る罪人であることを悟りました。

 ★ペテロは、主を愛していましたが、主が十字架の死を予告なさった時、主をわきに引き寄せていさめ、「主よ。とんでもないことです。そんなことあるはずがありません」と言って主から、「引き下がれ、サタン。あなたは私の邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とこっぴどく叱られました(マタイ16:22-26)。

 ★ペテロは、主のためだと思って進言しましたが、それは御霊の思いではなく、肉の思いであり、主の御業を妨害するサタンのわざでした。

 ★同じペテロは、また主イエスに「他の弟子たちがあなたを見捨てても、私はあなたを決して見捨てません」(マルコ14:29)と宣言しましたが、その直後、祭司長、律法学者らに捕らえられ、引かれて行く主を前にして、他の弟子たちと共に主を見捨てて逃げ去りました。

 ★この時のペテロの様に、私たちキリスト者は御心を行いたい、主を喜ばせたいと言う心を持ちながら、いざという時、それを実行することが出来ないのです。

 ★良いサマリヤ人(ルカ10:25-37)の様に、困っている人を見た時、助けてあげなければならないことは分かっていながら、「忙しいから」、「もっと大事なことがあるから」とか理由を付けて、レビ人や祭司のように見て見ぬ振りをして通り過ぎてしまう様なことを私たちキリスト者もしがちなのです。時には良いことをすることができても、いつも出来ているとは言えないのです。

 ★使徒パウロの様に、私たちから見ると雲の上の人の様に聖く正しい人でさえも、神の聖く正しい完全な御心の光に照らされると、「ああ、私は何とみじめな人間なのだろう」(7:24)と嘆かざるを得ない程、神の律法のレベルは高く、私たちの自力では決して達成できないのです。

Ⅱ キリストにある勝利

 8:3,4「3律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のために遣わし、肉において罪を罰せられたのである。 4これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。 」

 ★主は罪の性質を他にして、私たちと同じ肉体を取り、ヨセフとマリヤの子としてこの世に遣わされました。そして、完全な義しい生活を全うされ、私たちの身代わりの死によって罪をあがない、死から復活して死に勝利して下さいました。

 ★私たちキリスト者の信仰生活は、救い主キリストがすでに成就してくださった救いの御業を信じて受け入れ、その恵みを御霊によって生かし活用して行くことになります。

 ★ヨシュアの時代、エリコの町の城壁の回りを、兵士たちが7日間、111周し、7日目に兵士の後を祭司たちが主の箱を担いで7回周り、民がときの声を上げると、イスラエルの斥候(スパイ)をかくまった遊女ラハブの住む城壁の一部を除いて全部が崩れ落ち、町全体が崩壊し、その住民も全滅しました。イスラエルは主のことばを信じて実践するだけで、戦わずしてエリコに勝利しました(ヨシュア6章)。

 ★このエリコの戦いは、私たちキリスト者の信仰の戦いのひな形であり、モデルです。この戦いにおいてイスラエルの民は、信仰によって主に服従し、み言葉を実践しただけで、何もすることなく、戦いに勝利をおさめました。

 ★私たちキリスト者の信仰の戦いも、キリストの十字架のあがないの御業を信じて、約束の御霊の注ぎを受け、主の導きと御力を信じてみ言葉を実践する時、主の御力によって律法の要求が全うされるのです。

 ★キリストの救いの御業もそれを信じる信仰も、神の賜物であり、神のプレゼントであって(エペソ2:8)、私たちの功績はゼロです。私たちキリスト者の生活は、キリストのかたちに私たちが変えられる日、御国に入る日までこの世とサタンと肉と戦う戦いの生活です。

 ★イスラエルが約束の地カナンへの旅路の中で、先住民である偶像礼拝者と戦い、イスラエルの不平分子と戦ったように、私たちも天の御国に入るまで、戦いを休む訳に行きません。

 ★そして、地上にいる間、私たち自身の中に存在する肉が、私たちキリスト者の生活の成長、前進を妨害し続けますが、8:4

「律法の要求は、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされる」のです。

聖書
 「16わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。17なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。 18もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。19肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、20偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、 21ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。 22しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 23柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 24キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。  ガラテヤ人への手紙5:16-24


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キリスト紀元2019年 5月 25日公開

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