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    ローマ人への手紙講話

〈17〉イスラエル問題(1)パウロの心の痛み

ローマ人への手紙9:1-33

 1わたしはキリストにあって真実を語る。偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって、わたしにこうあかしをしている。2すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。 3実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。4彼らはイスラエル人であって、子たる身分を授けられることも、栄光も、もろもろの契約も、律法を授けられることも、礼拝も、数々の約束も彼らのもの、 5また父祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストもまた彼らから出られたのである。万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな、アァメン。

  6しかし、神の言が無効になったというわけではない。なぜなら、イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではなく、7また、アブラハムの子孫だからといって、その全部が子であるのではないからである。かえって「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」。 8すなわち、肉の子がそのまま神の子なのではなく、むしろ約束の子が子孫として認められるのである。9約束の言葉はこうである。「来年の今ごろ、わたしはまた来る。そして、サラに男子が与えられるであろう」。 10そればかりではなく、ひとりの人、すなわち、わたしたちの父祖イサクによって受胎したリベカの場合も、また同様である。 11まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、12わざによらず、召したかたによって行われるために、「兄は弟に仕えるであろう」と、彼女に仰せられたのである。 13「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」と書いてあるとおりである。

 14では、わたしたちはなんと言おうか。神の側に不正があるのか。断じてそうではない。 15神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。 16ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。 17聖書はパロにこう言っている、「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」。 18だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである。

 19そこで、あなたは言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」。 20ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。 21陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。 22もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、 23かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。 24    神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。25それは、ホセアの書でも言われているとおりである、「わたしは、わたしの民でない者を、わたしの民と呼び、愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。 26あなたがたはわたしの民ではないと、彼らに言ったその場所で、彼らは生ける神の子らであると、呼ばれるであろう」。

27また、イザヤはイスラエルについて叫んでいる、

「たとい、イスラエルの子らの数は、浜の砂のようであっても、救われるのは、残された者だけであろう。 28主は、御言をきびしくまたすみやかに、地上になしとげられるであろう」。

29さらに、イザヤは預言した、

「もし、万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったなら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラと同じようになったであろう」。

30では、わたしたちはなんと言おうか。義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た。 31しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。 32なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。

 33「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、さまたげの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終ることがない」と書いてあるとおりである。

講話

Ⅰパウロの心の痛み

 ★前の章839で、何者もキリストの愛から私たちを引き離す者はないと大胆に、勝利と賛美の宣言を述べた直後のこの9章で、パウロは同胞イスラエルが唯一の救い主キリストに背いて滅びに向かっている事実に心を痛め、彼ら同胞の救いのためなら、3節にあるように「この私がキリストから引き離されて、呪われた者となっても構わない、という心境を明らかにしています。

 ★このパウロの願いは、出エジプト32:32のモーゼの祈りに等しい願いです。モーゼがシナイ山で4040夜断食し、主から律法を授かり下山して民のところへ帰って来た時、民は金の子牛を造って、「これは我々をエジプトから導き出したイスラエルの神・主だ」と叫んで、偶像礼拝にふけっていました。この金の子牛は民の願いを聞き入れてモーゼの兄・祭司アロンが造ったものでした。

 ★この時の偶像礼拝者3000人が処刑されましたが、モーゼは主のもとに行って、「この民の罪をお赦し下さい。かなわないなら、あなたの書物から私の名を消し去ってください。」と祈りました(出エジプト32:30-35)。

 ★この時のモーゼのように、パウロは「同胞イスラエルが救われるためなら、この私がキリストから引き離され、呪われても構わない」と9:7で語っています。

 ★このパウロやモーゼの祈りは、キリストに背を向け、滅びに向かっている子や孫や親たちを思う時、私たち自身が捧げるべき祈りです。「捧げるべき祈り」という言い方をするのは、私たちが子や孫や親たちの救いのために祈る時、正直のところこれほど真剣に切実に祈っていないからです。彼らの不信仰の現状を思う時、モーゼやパウロの様な切実な祈りが必要です。

 ★滅びに向かって歩んでいるユダヤ人や我が国の同胞に共通することは、唯一の救い主イエス・キリストを信じていない点にあります。パウロは5節で

「また、キリストも人としては彼ら(ユダヤ人)から出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。」(新改訳)

と賛美しています。

 ★口語訳聖書はこの5節を二つの文章に分けて、「肉によればキリストもまた彼らから出られたのである。万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな、アァメン。」と訳していますが、ここは新改訳の訳が正解です。

 ★なぜなら、パウロは同胞イスラエルがキリストにつまずいている原因は彼が人となられた神であられるという点にあるということを5節で語ろうとしているのであり、口語訳の様に訳したのでは、5節の説得力が弱まり、不適切な文章になるからです。

 ★それに、ピリピ29-11でパウロは、イエス・キリストを主(ヘブル語のヤハウェ)と呼んでいます。

 9それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。 10それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、11また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。 (ピリピ2:9-11)

Ⅱユダヤ人の不信仰によって神の言葉は無効になったのか

 ★大方のユダヤ人の不信仰によって、イエス・キリストによる神の救いの御計画は無効になったのでしょうか。そうではありません。イスラエルがキリストを拒んで神の民でなくなったからといって、神の言葉が無効になったのではありまん。6節「イスラエルから出る者がみなイスラエルなのではなく、7節アブラハムから出た子供がみな神の民ではないからです」。

 ★アブラハムから生まれたイサクは選ばれ、イシマエルは捨てられました。イサクから出たヤコブは選ばれ、エサウは捨てられました。ヤコブとエサウの場合、1113「まだ生まれる前、善も悪も行わないうちに、行いによらず『私はヤコブを愛し、エサウを憎んだ』(マラキ1:2,3)と告げられたのです」。このように、ユダヤ人の中でも神に選ばれた者は、キリストを信じて救われ、神に捨てられた者はキリストを拒んで滅びたのです。

 ★それでは、この様にある者を一方的に愛して救い、他の者を一方的に憎んで滅ぼす神の側に、えこひいきの不正があるのではないかという疑問が湧いてきます。しかし、これに対してパウロは、18節「神は人を御心のままにあわれみ、また御心のままにかたくなになさるのである」と言っています。

 ★アブラハム、イサク、ヤコブが主を信じて神の道を選び歩んだのは、16節にあるように「彼らの願いや努力によるのでなく、憐れんで下さる神の賜物なのです」。イスラエルの出エジプトを10度も妨げ10の災いを自分の身に招いた「エジプト王パロは主なる神によって頑なにされた」(出エジプト10:20)とあります。

 ★パロをエジプト王として立て、彼の心を10度も頑なになさったのは、15節にあるようにパロによって主なる神の力を示し、主の名を全世界に告げ知らせるためでした。

 ★すると、次にはこういう反論が提示されます。19節「神が一方的に憐れもうとする者を憐れみ、かたくなにしようとする者の心を頑なになさるのなら、すべては神の御心のまま、ご計画のままに事が運ぶことになります。そうなると、なるようにしかならないなら、神はどうして人間に責任を負わせ、人を責めるのですか」。

 ★すなわち、神に向かって反論する人々はこう言いたいのです。エサウが一杯のあつものの為に家督の権を手放したのは、主なる神がエサウの心を天にあるものより地上のものを愛するに任せ放任させたからであり、パロがイスラエルの出エジプトを10度も拒み、脱出したイスラエルを追跡して、二つに分かれた海の道に入り込んで、返って来た波に呑まれて死んだのは(出エジプト14:21-29)、主なる神が彼の心を頑なにされたためであるなら、主は何故エサウやパロを裁かれるのですか。

 ★これに対して、パウロは20節以下で造られた者が造った者に対して「なぜ私をこの様に造ったのか」と文句を言う権利が神の被造物の一つに過ぎない人間にあるのかどうかを考えて見なさい、と言っています。神は天地万物の創造者であり、私たちは神の御手の作品です。

 20,21節のみ言葉は、イザヤ書2916に出てくるみ言葉の引用です。

 「あなたがたは転倒して考えている。陶器師は粘土と同じものに思われるだろうか。造られた物はそれを造った者について、『彼はわたしを造らなかった』と言い、形造られた物は形造った者について、『彼は知恵がない』と言うことができようか。 」イザヤ29:16

 ★主なる神は、主イエスを敵の手に売り渡す役目を果たさせるために、イスカリオテのユダを弟子の一人として選び、3年間主と共に生活し、主と交わり、主の人格と教えを知るチャンスを与え、信じて従えば御国に入れる自由をお与えになりました。

 ★しかし、ユダは自発的に永遠の命に入ることを拒み、金銭を愛し、滅びへの大きな門をくぐり、主を裏切る道を選びました。主は、ユダを最終的に裏切者の役目を果たすためにお選びになりましたが、ユダも自発的にいのちへの道を捨てて滅びへの道を選びました。

Ⅲ義を追い求めなかった異邦人は信仰による義を得た

 ★ユダヤ人が律法の行いによって義を追い求めたと言っても、彼らの追い求めた律法の義とはみ言葉に記されたままの律法の義ではなく、言い伝えや伝統によってゆがめられた律法の義です。

 ★その一例が、「年老いた親の生活支援金として用意したお金は、神に捧げるお金となりました」と宣言しさえすれば、親にお金を贈らなくて良いという、歪められた律法の解釈に基づいた言い伝えがありました(マルコ7:8-12)。

 ★その様な、神の律法とは似ても似つかないゆがんだ不正な律法解釈による教えに従って「私は律法を守っている」と思い込んでいるユダヤ人を主なる神が義とし、受け入れて下さるはずがありません。

 33「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、さまたげの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終ることがない」

 主イエスが地上を歩まれた時代のユダヤ人は、信仰によって義とされたアブラハムの信仰から大きく外れて、神の純粋な律法ではなく、伝統で歪められた律法の行いによる義で満足していたので、唯一の救い主イエス・キリストを信じる信仰による義は、彼らの眼中には全くなく隠されたままでした。

 ★当時のユダヤの国が認める学校教育を受けておられないナザレのイエスは、ユダヤの律法学者・祭司長・パリサイ人という民の指導者の目には、つまずきの石であり、ローマのカイザルに背く一派の首領として十字架に掛けて無き者にするに相応しい人物であり、

イスラエルの家を建てる者らに捨てられた隅の頭石(詩篇118:22-23)でした。

 ★しかし、このお方こそ、信じる者にまことの救いを与える神の御国の土台石であり、このお方に信頼する者は、誰でも失望させられることがありません。

 ★主の霊は心砕かれて、へりくだった人と共に住むと主は言われます。

 「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、『わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕ける者の心をいかす。』」イザヤ57:15 


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キリスト紀元2019年 7月 19日公開

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