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    ローマ人への手紙講話

〈18〉イスラエル問題(2)私は私を求めない者に見出された

ローマ人への手紙10:1-21

 1兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。 2わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。 3なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。 4キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。

 5モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いている。 6しかし、信仰による義は、こう言っている、

「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。

それは、キリストを引き降ろすことである。 7また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。 8では、なんと言っているか。

「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。

この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。 9すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。 10なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。11聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。12 ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。13なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。

 14しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。 15つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。

「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。16しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。 17したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。 18しかしわたしは言う、彼らには聞えなかったのであろうか。否、むしろ

「その声は全地にひびきわたり、その言葉は世界のはてにまで及んだ」。

19なお、わたしは言う、イスラエルは知らなかったのであろうか。まずモーセは言っている、

「わたしはあなたがたに、国民でない者に対してねたみを起させ、無知な国民に対して、怒りをいだかせるであろう」。20イザヤも大胆に言っている、

「わたしは、わたしを求めない者たちに見いだされ、わたしを尋ねない者に、自分を現した」。

21そして、イスラエルについては、

「わたしは服従せずに反抗する民に、終日わたしの手をさし伸べていた」

と言っている。

講話

Ⅰ ユダヤ人の律法による義

 ★パウロは復活の主に出会って、キリスト教会の迫害者からキリストの福音の伝道者になった人なので、ユダヤ人が神の律法に対して熱心であることは認めています。しかし、パウロ自身がガマリエル門下の厳格なパリサイ人であった時に気付かなかった事ですが、彼らユダヤ人の熱心は正しい知識に基ずくものではありませんでした。

 ★彼は、キリストの弟子たちを捕らえて、縛って連行して牢にぶち込むことによって、神を喜ばせていると信じていました。この時のパウロの信仰は、キリストを迫害し十字架に付けたユダヤ人と同じ信仰でした。

 ★この時のユダヤ人について、主イエスはこう言っておられます。即ち、「あなた方は、自分たちの父はアブラハムであると言っているが、そのあなた方は私を殺そうとしている。アブラハムはそのような事をしなかった。あなた方の父はアブラハムではなくサタンである」と主はヨハネ8:44で明確に断言しておられます。

 ★彼らユダヤ人は神に対して熱心であると自認していましたが、その熱心は正しい知識に基ずくものではなく、彼ら自身の義を立てようとして、神の義に従いませんでした(2節、3節)。

 6節の「信仰の義はこう言っている」ということは、信仰義認の立場に立つと、行いの義を求める者はキリストに対してこういう事をしているに等しいのだ、という事です。

 ★即ち、私たちを救うために天から遣わされて、十字架上で贖いの業を終え、死から復活して天に昇られた主を無視して、誰が私たちの救いの道を開くために、天に昇ってくれるだろうと言うことは、既に救いの御業を全うして天に昇られたキリストを否定し、キリストを天から引きずり降ろすに等しい愚かで無用な行為だということです。

 ★また、「誰が地の底に下るだろうか」と言うことは、既にキリストが成し遂げて下さった復活の御業を無視して、誰が我々を救うために死んで復活してくれるだろうかと論じることであり、人間が神とキリストを無視して自力で死からの復活を求めるに等しい愚かな行為だということです。

 ★律法の行いによる救いを求めることは、キリストが既に成し遂げてくださった救いの御業を自力でやり遂げようと試みることであり、無駄な努力であって、永久に救いを得られない結果となります。

 ★この様に行ないによる救いは、困難を通り越して永遠に不可能ですが、信仰による救いは10節にあるように、「心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」のであって、信じる者の努力によらず、信じる者の心に働く聖霊の働きによる天から来る新しい生まれ変わりのいのちです。

 ★ユダヤ人、ローマ人、日本人の区別なく誰でも、10節「心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」。アブラハムは心に信じて義と認められました。心で主イエスが私の罪のために十字架の上で死に三日目に死人の中から甦られたと信じたなら、その信仰を神と人の前で口で告白することが重要です。

 ★マタイ10:3233で主は

 「32だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。33しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。 」 

と言っておられます。

Ⅱ信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストの言葉から来る 

 ★キリストを救い主と信じて告白して救われるためには、キリストの福音を誰かから聞かされなければ、知ることは出来ません。キリストの時代、初代キリスト教会の時代、福音は口の語る言葉で人々に伝えられました。今のように、印刷された書物としての聖書を一人一人が手にする事のできない時代だったので、人々はおもにキリスト教会の説教を通して福音を聞き、信じて救われました。

 ★今は、印刷された聖書やトラクトやインターネット上の説教によって、多くの人々が福音に接することが出来ます。スポルジョンが、彼が書いた一枚のトラクトによって救われた女性のことを語っています。筆者が石川県金沢市で伝道していた時、当方が書いて印刷し配布したトラクトが捨てられ、町のある商店の包み紙として用いられました。その包み紙トラクトがそこで買い物をした主婦の目に留まり、その婦人も信じてクリスチャンとなりました。

 ★マタイ9:37,38で、主イエスは弟子たちに言われました。

 「収穫は多いが、働き人が少ない。 だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。 マタイ9:37,38

 ★今の時代は、口頭で語る福音伝道ばかりではなく、文書で伝道する文書伝道やテレビ伝道、インターネット伝道等の色々な形での伝道活動が可能です。

 ★同志社大学の創設者新島 襄は、創世記11節の「初めに神が天と地とを創造された」というみ言葉を読んだだけでキリスト者になったという話は有名な話です。幼子のように純粋で謙虚な稀有な心の持ち主は彼の様に聖書を読むだけで救いに至る信仰に恵まれることが可能です。

 「信仰は聞くこと(読むこと)から始まり、聞くことはキリストのことばから来るのです」(17節)。新改訳は「キリストについてのみ言葉」となっていますが、原語のギリシャ語では「聞くことはキリストの言葉を通して来る」となっています。

 ★今日も、教会の講壇から語られるべき説教は、学者がどう言っているとか、聖書注解者がこう言っているではなく聖書そのものがこう言っていると権威をもって、キリストのことばを語る必要があります。聖書のことばそのものを読み聞く時、聖霊が私たちの心に直接語りかけてくださるのです。

Ⅲわたしは私を求めない者にみいだされた(20節)

 ★筆者は高校3年生の時、米人バプテスト派宣教師から福音を聞きました。その時はよく理解せず、充分な信仰を持たずに洗礼を受けました。しかし、その後聖書を読み続け、教会の礼拝を守り続けることによって真の信仰に至りました。

 ★筆者がキリスト信仰に導かれたのは、真理を、救いを求めていたからではありません。人生とは、世界とは、人間とは、神とは何も分からないまま洗礼を受けましたが、主の憐れみによりキリスト信仰による救いに導かれました。筆者は神もキリストも求めていなかったのに、神とキリストに見出され救われました。

 ★筆者自身の天路歴程の道を振り返って思うことは、人は幼い内にキリストの福音を教えられ、キリストに導かることが一番願わしいということです。しかし、年齢によらず新島襄の様に純粋で素直な心の持ち主は、聖書のみことばに接するだけで悟り、霊の目が開かれ救われ永遠のいのちを与えられます。

 ★イザヤ書651のみことばが20節に引用されています。イザヤ書651はこうなっています。

「わたしはわたしを求めなかった者に問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に見いだされることを喜んだ。わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、『わたしはここにいる、わたしはここにいる』と。 」イザヤ書65:1

 ★私たち日本人は仏教や神道の影響を強く受けている国民であり、根底的に偶像礼拝者で聖書の神から呪われ捨て去られるべき民族ですが、主はこの様な日本人の中から救われる者たちを僅かながら起こしてくださいました。

 ★日本のクリスチャンは、人口の1%と言われますが、その1%はカトリック信徒は勿論のこと、エホバの証人やモルモン教徒などの異端も含めた数字です。原典聖書に忠実な本当のキリスト者はごく少数で0.3%もいないかも知れません。その少数派の中に私たちを選んでくださったことは誠に感謝のほかありません。世にある限り、全力を尽くして福音を語り伝え、書き伝えて行きたいと思います。

 21節はイザヤ書65:2のみことばです。イザヤはこう言っています。「よからぬ道に歩み、自分の思いに従うそむける民に、わたしはひねもす手を伸べて招いた。 」イザヤ書65:2

 このイスラエルに付いての表現は、イザヤの時代から今日に至るまで一貫して変わらないユダヤ人の神に対する反逆の姿勢を描いています。

 ★天の父なる神は、不従順で反逆するユダヤ人を完全に見捨てることなく、彼らが地上に生活している間、ずーっと手を差し伸べて帰って来るのを待ち望んでおられます。放蕩息子の帰りを待ち望む父のすがたこそ、ユダヤ人のそして私たち人類の悔い改めを待ち望む天の父なる神のお姿です。

 ★この父なる神の姿とモーセとパウロの同胞のための執り成しの祈りこそ、私たちが私たちの家族、子供そして同胞の為に捧げなければならない祈りであることを忘れないでいたいと思います。



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キリスト紀元2019年 7月 29日公開

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