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    ローマ人への手紙講話

〈19〉イスラエル問題(3)神の慈愛と厳しさとを見よ

ローマ人への手紙11:1-24

 1そこで、わたしは問う、「神はその民を捨てたのであろうか」。断じてそうではない。わたしもイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者である。 2神は、あらかじめ知っておられたその民を、捨てることはされなかった。聖書がエリヤについてなんと言っているか、あなたがたは知らないのか。すなわち、彼はイスラエルを神に訴えてこう言った。 3「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこぼち、そして、わたしひとりが取り残されたのに、彼らはわたしのいのちをも求めています」。 4しかし、彼に対する御告げはなんであったか、「バアルにひざをかがめなかった七千人を、わたしのために残しておいた」。 5それと同じように、今の時にも、恵みの選びによって残された者がいる。 6しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである。

 7では、どうなるのか。イスラエルはその追い求めているものを得ないで、ただ選ばれた者が、それを得た。そして、他の者たちはかたくなになった。

 8「神は、彼らに鈍い心と、見えない目と、聞えない耳とを与えて、きょう、この日に及んでいる」と書いてあるとおりである。 9ダビデもまた言っている、

 「彼らの食卓は、彼らのわなとなれ、網となれ、つまずきとなれ、報復となれ。 10彼らの目は、くらんで見えなくなれ、彼らの背は、いつまでも曲っておれ」。

 11そこで、わたしは問う、

「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。

 12しかし、もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう。 13そこでわたしは、あなたがた異邦人に言う。わたし自身は異邦人の使徒なのであるから、わたしの務を光栄とし、14どうにかしてわたしの骨肉を奮起させ、彼らの幾人かを救おうと願っている。 15もし彼らの捨てられたことが世の和解となったとすれば、彼らの受けいれられることは、死人の中から生き返ることではないか。 16もし、麦粉の初穂がきよければ、そのかたまりもきよい。もし根がきよければ、その枝もきよい。 17しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、 18あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。 19すると、あなたは、「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」と言うであろう。 20まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。 21もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。22神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。 23しかし彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐ力がある。 24なぜなら、もしあなたが自然のままの野生のオリブから切り取られ、自然の性質に反して良いオリブにつがれたとすれば、まして、これら自然のままの良い枝は、もっとたやすく、元のオリブにつがれないであろうか。

講話

Ⅰ恵みの選びによって残された者

 ★前の章10:2「主は、主を求めない者に見い出され、主を尋ねない者に自分を現した」とあります。主が異邦人の救いに向かわれたのは、ご自分の民ユダヤ人を見捨てられたからか。いや、そうではない。現にこの私パウロ、著者パウロもユダヤ人・イスラエル人であり、アブラハムの子孫ベニヤミン族の出身であると、パウロは言います。

 ★ここでパウロは、列王上1918で主が預言者エリヤに「イスラエルのうちに、太陽神バールに膝をかがめない者7000人を残す。」と断言して居られる言葉を示しています。

 ★預言者エリヤは、イスラエル王アハブに偶像バールとアシェラの預言者合計850人をカルメル山上に集めさせ、バールが神か、主が神か二つに一つを王と民に選ばせようとしました。

 ★民は火をもって答えた主なる神を選び、バールの預言者たちをキション川で処刑しました。これに怒り狂った王妃イゼベルを恐れてエリヤは逃走しました。

 ★その時、主はエリヤに、「あなたは何をしているのか」と問われました。エリヤは答えました。「私は主のために熱心でしたが、イスラエルの民は主の祭壇を破壊し、主の預言者を殺害しました。私一人だけ残りましたが、彼らは私の命を奪おうとしています」。主は、その時4節の言葉「バールに膝をかがめていない男子7000人を残してある」とエリヤに言われました。

 ★イスラエルの全員が主を捨て、主の預言者を迫害し、主の民は一人もいなくなったとエリヤが嘆いていたその時、主は恵みによって残された7000人の民を用意しておられました。

 ★今日の日本国民も大多数が偶像礼拝者です。キリストの救いを求めようとしません。しかし、わずかながら主はまことの神を礼拝する、恵みによる残りの民を用意しておられます。今救われている私たちの務めは、祈りつつキリストの福音をこつこつと宣べ伝えて行くだけです。

Ⅱユダヤ人が頑なにされた理由

 ★出エジプトの時、パロの心は主によって何度も何度も頑なにされました。出エジプト記を初めて読む人には、パロは何て頑ななんだろう、そして、主は何故パロの心を頑なになさったのだろう、と思わされますが、それは10の災いによってエジプトの偶像の神々に対する裁きを示すと共に、イスラエルの出エジプトに伴う神の力強い奇跡の数々をためであったことが後から分かります(出エジプト10:1,2)。

 ★中でも、紅海を二つに分け、海の中に突然現れ乾いた道を通ることによって、イスラエルの民を救い、同じ道を通ろうとしたパロとその軍勢を海の底に沈めることによって神の栄光は現わされました(出エジプト14章)。

 11「彼らイスラエルの違反によって救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルに妬みを起こさせるためです」。イスラエルの民が心を頑なにして唯一の救い主キリストを十字架に掛け、救いの道を拒否したために、キリストの福音は異邦人に向けられ、異邦人の救いの道が開かれました。

 ★キリストの福音がユダヤ人から異邦人に移される事情について、主イエスは、マタイ22章の婚宴のたとえとルカ14章の盛大な晩餐会のたとえで、招待客であるユダヤ人が招待を拒絶し、主催者である王が立腹して、しもべ達に誰でも構わないから、出会った人々を無理矢理にでも連れて来るように命じている話をしておられます。

 ★これらの二つのたとえで共通する点は、招かれた人々があれこれ勝手な理由を上げて断っている点です。この様に、ユダヤ人は救い主イエス・キリストに対して、大工のせがれではないか、学歴がないではないか、都会のエルサレムではなく、田舎のナザレの出身ではないか、と言ってさげすみました。

 ★マタイ22章の王子の婚礼のたとえでは、招待客は王の僕を捕らえて侮辱を加えた上、殺害したとあります。それに怒った王は軍隊を送って人殺し共を滅ぼし、町を焼き払っています。この様に、福音はユダヤ人に拒否されたので、異邦人に宣べ伝えられました。

 ★キリストの福音が異邦人に宣べ伝えられたのは、異邦人の救いによってユダヤ人にねたみを起させるためだと11節、14節は言っています。

 ★聖書の神はねたむ神であると出エジプト225の十戒の第2戒は言っています。神の妬みは悪い意味を含んでいません。主なる神は、イスラエルの民をご自分の花嫁として選び、愛し、育てようとしておられましたが、イスラエルは花婿である神をしばしば捨て去り、偶像の神のもとに走りました。

 ★これをご覧になった神は、お怒りになり、彼らを懲らしめる。すると、イスラエルは苦しんで主に叫び祈って主のもとに立ち返る、この繰り返しが旧約聖書全般に見られます。

 ★妬みという感情は、主として夫婦の間に起こる感情で、夫が妻が自分以外の相手を愛するようになる時、心の中に起こる感情を表す言葉です。夫婦であるなら、相手以外の男女に愛情を注いではいけません。それが起こる時、妬みが発生します。これは、正常な当然な感情です。

 ★イスラエルの花婿である主なる神が、主の花嫁である自分達を差し置いて、異邦人を愛し受け入れて居られるのを見てイスラエルが妬んで、自分達こそ本来の神の花嫁であるとの思いに立ち返り、主なる神との婚姻関係の正常化に向けて、軌道修正をはかろうとしてくれることを父なる神は求めて居られます。

 ★ルカ15:11-32に出てくる放蕩息子のたとえで、放蕩息子は異邦人を、家に残っている長男は、イスラエル民族を表しています。放蕩息子、すなわち異邦人が悔い改めて父のもとに帰って来た時、父は大喜びで大宴会を開いて、立ち返った放蕩息子を大歓迎しています。

 ★ユダヤ人の兄は、その父の振る舞いに大いに腹を立て妬んでいます。この兄の妬みが正常な感情であれば、その感情はロマ11:14にあるように、ユダヤ人である兄を救いに導くものとなるはずです。

 ★放蕩息子の兄は、父なる神の恵みにではなく、自分の行いの義に頼っています。即ち、「一度もあなたの言いつけに背いたことはない」と自分の行いの義を誇っています。そして、福音の神髄である、「インマヌエル(神、我と共にいますの意)の祝福を理解していません。また、死からの復活の喜びが分かっていません。

 ★放蕩息子の兄は、弟の帰りを喜ぶ父の姿を見て、自分の心の在り方を深く反省して、悔い改めて父と共に弟の帰りを喜ぶ兄に生まれ変わらなければなりません。

Ⅲ神の慈愛と厳しさとを見よ

 17節「しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば」、神の家の一員だったユダヤ人が不信仰の故に折られ、取り除かれ、その後野生のオリーブの枝である私たち異邦人が、神の家の一員として神の豊かな養分を受けているなら、切り取られた枝、即ちユダヤ人に対して誇ってはなりません。自分がオリーブの木である神の家を支えているのではなく、神の家が私たちを支えてくれているのです。

 ★神の家、神の国のオリーブの木に接ぎ木された私たち異邦人キリスト者の取るべき態度は、謙遜、遜り、と信仰と忍耐です。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタイ24:13)のです。

 22節「神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう

 ★種まきのたとえで、良い土地に落ちて30倍、60倍、100倍の実を結ぶ人とは、み言葉を聞いて悟る人のことで、み言葉にしっかり根を張って、御霊の水と油をしっかり受け止めて、日々信仰の恵みに成長し、試練を耐え忍んで、すべてのことを感謝し、信仰から信仰へと進む人のことです。

 ★イスラエルが、アブラハムの信仰による義認の道からそれて、行ないによる義の間違った道に迷い込んだように、私たち人間は愚かで間違えやすい愚かな存在です。へりくだって常にみ言葉の真理に立ち返り、御霊とみ言葉と祈りによって、日々自らの信仰を吟味し、軌道修正して行く者であり続けたいと思います



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キリスト紀元2019年 8月 12日公開

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