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    ローマ人への手紙講話

  
〈3〉ユダヤ人の罪  2章1-16節

本文 21-16

 1だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。2わたしたちは、神のさばきが、このような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。  3ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。  4それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。  5あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。  6神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。  7すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、 8 他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる。 9悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、患難と苦悩とが与えられ、  10善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、光栄とほまれと平安とが与えられる。  11 なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。  12そのわけは、律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる。  13 なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである。 14 すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。 15 彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。 16そして、これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう。

講話
 ★聖書注解書を読むと、第一章は異邦人の罪、二章はユダヤ人の罪と要約されているものが多いですが、聖書を読んでみるとユダヤ人も可成り罪深いので、一章は人類全般の罪、二章はユダヤ人と特にまじめに生きていると自認している異邦人の罪と要約した方が適切かも知れません。

 Ⅰ神にえこひいきはない

 ★6節には「神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。」とあります。これが、神の原則です。ですから、ユダヤ人もアメリカ人も日本人も平等に行ないによって裁かれます。しかし、聖書によると人は誰でも行いによって義(罪無し)とされません。行ないによって義とされ、天国行きの切符を手に入れることの出来る人はひとりもいません。キリストを信じて罪を赦され救われたキリスト者は、キリストの義(正しい行い)がその信じる人に与えられることによって、そのキリスト者は義人(罪のない正しい人)と見做され、天国のいのち(永遠の生命)が与えられます。
 ★その永遠のいのちを与えられ救われたキリスト者は、キリストに倣う者となり、日々み言葉を読み、学び、祈ることによってキリストにある成人に成長できるように努めます。よちよち歩きの赤ちゃんが、転びながらも歩き続ける努力をして日々成長して行くように、すべてのキリスト者はみ言葉に従って、神を喜び神の栄光を表し、キリストに似た者になろうと努めます。この世にある限り、キリストのように完全な人間になることはできませんが、天国に移されたなら、罪と穢れとから完全にきよめられます。

 ★ですから、キリスト者はみ言葉に従う努力を日々重ね、地上にある限り日々きよめられることを期待されています。イスカリオテのユダの様に3年もの間、主イエスと共に歩み、み言葉を直接聞き、その御業を見ていながら、悔い改めず、金銭欲のために主を裏切る者は永遠の裁きに定められて当然と言わざるを得ません。

 ★1節の「他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っている」という言葉は、厳格なパリサイ人であった著者パウロ自身が、その頃の自分を振り返って自身のことを語っていると言って間違いないと思います。

 ★主イエスのたとえ話の「取税人とパリサイ人のたとえ」の様に、パリサイ人は人と比べて自分を誇っていますが、彼らの心の中は当時のユダヤの道端の墓の中の様にけがれたもので一杯でした。

 ★福音書に出てくるパリサイ人、律法学者は神の言葉を自分たちに都合のいいようにねじ曲げて、十戒の第5戒にある「父母を敬え」を無視し、「父母に捧げるべき物が神に捧げる物になりました」と言えば、父母に捧げなくてよいと言い逃れて、父母を軽んじていました(マルコ7の11)。

 ★安息日の主であられる主イエスが安息日に病人を癒し、足萎えを歩かせ、盲人の目を開けると、安息日にしてはならない事をしたと言って非難しました(マタイ12の9−14)。彼らパリサイ人、律法学者は、律法を守っている言いながら、彼らの守っている律法は、人の言い伝えによってゆがめられた律法であり、神の律法の神髄である憐れみと誠実と真実を欠いたものであり(マタイ23の23、ミカ6の8)、彼らの心の中は、不正と罪と汚れで一杯でした(マタイ23の27)。

 ★ユダヤ人は自分たちはアブラハムの子孫であり、神の選民であって、神から特別扱いを受けている民であると自認していました。しかし、パウロが言うように神はユダヤ人を特別扱いせず(上記本文11節)、全人類を平等に扱われるのであって、彼らユダヤ人の不正は正当に裁かれるのです。

 Ⅱ神の慈愛を軽んじる者は神の怒りを自分の上に積み上げていること

 ★旧約聖書時代に、ノアの洪水によって悔い改めない人々への裁きが行われました。神を信じるノアとその家族8人だけが救われるという、世の終わりの日の裁きを予告する世界規模の裁きが実行され、この出来事は世界中の人々に伝えられ、世の終わりの最終的裁きへの警鐘となりました(創世記6の11−9の17)。

 ★ニネベの町は、ヨナの宣教によって上は王様から下は奴隷に至るまで荒布を身にまとって悔い改めたため、神は彼らの上に下そうとしておられた災いを思い直してお止めになりました(ヨナ書)。聖書の神は憐れみ深い神です。天の父なる神は正しい者の上にも、悪い者の上にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださる慈愛の神です。

 ★神を無視する人類は、神の慈愛を罪を犯す自分たちに対する神の是認とみなし、悪の道を捨てて悔い改めることをしません。このことによって、人類は自分達の頭上に神の怒りりを積み上げ、キリスト再臨の日に恐るべき焼き尽くす火の下されることを確実なものにしています。

 Ⅲ律法を聞く者が神の御前に正しいのでなく、律法を行う者が正しいと認められる

 ★律法を行う者とは、律法を完全に守り行う者という意味です。律法を完全に行なう者がいるなら、その人は律法の行ないによって救われると言えます。しかし、神の律法を完全に守ることのできる人は、この世には人となられた神の御子キリスト以外に一人もいません。

 ★律法を完全に守るユダヤ人と、心に刻まれた良心に従って完全無欠な人生を歩んだ異邦人がいるなら、神はその人を行ないによって救う用意があります。しかし、地球上の人間は、人の子となられた神の御子キリスト以外は誰一人完全無欠ではありません。

 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。ヨハネ14の6

 Ⅳ神の裁きは神がキリスト・イエスによって隠れたことを裁かれる日に行われます

 ★天の父なる神は、光であられるので、すべての隠れたことを終わりの日にキリストによって裁かれます(16節)。天地創造の時に人間を造られ、神のキリストをこの世にお遣わしになることによって、人間の心も体も全てをご存知の神様は、人間を人間として正確に評価し裁く権限と資格を備えておられます。

 ★父なる神は人となられた御子イエスを通して人間の隠れたところをすべてご覧になって裁かれます。キリスト以外に(Ⅰペテロ2の22)「義人はいない。ひとりも居ない。」(ローマ3の10)というみ言葉は真実です。すべてのキリスト者は、心の中で考えたこと、思い巡らした事を一つ一つ全て神の御前にさらけ出され、それを裁かれるなら、天の御国に入る資格を完全に失います。

 ★しかし、主イエスの十字架の尊い血潮が私たち信仰者を洗いきよめてくださったので、私たちは御国にはいることが許されているのです。

 6神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。。しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
 ヨハネの第一の手紙 1章 6-7節




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キリスト紀元2018年 12月 1日公開

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