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    ローマ人への手紙講話

〈6〉信仰義認ー人が義とされるのは信仰による

ローマ人への手紙 3章21−31節

21しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。22それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。23すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、 24彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。25神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、26それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。 27すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。 28わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。 29それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。30まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。31すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。

講話

 Ⅰ律法とは別の神の義の現れ

 ★1章から3章20節までで、パウロは全人類が罪人であり、律法を行うことによっては、誰一人神の御前に義と認められないことを明らかにしました。律法によっては罪の意識が生じるのみです。従って、律法は人をキリストに導く養育係でしかありません。

 ★そこで、律法とは別に、律法と預言者によって証された神の義が示されました。21節の「示された」という言葉は「明らかにされた」「啓示された」という意です。信仰による神の義は、律法と預言者すなわち旧約聖書によって証され、啓示されていました。

 ★まず第一に、創世記15:6に「アブラハムは信じた。主はこれを彼の義と認められた。」とあります。アブラハムは、主なる神の言葉「父の家を離れ、私が示す地へ行きなさい。あなたを大いなる国民とし、あなたを全人類の祝福のもといとする」(創世記12:1,2)という約束の言葉を信じました。 

 ★この時、アブラハムとサラ夫婦には子供がいませんでしたが、「あなたの身から出る子があなたの跡継ぎになる」という主なる神の言葉を信じたので、その信仰を神は義と認められました。信仰義認は、パウロの時代に始まった教えではなく、創世記の中に既に述べられていた教えでした。

 ★また、姦淫と殺人の罪を犯したダビデ王が、預言者ナタンにたとえ話を用いて説得されることによって、自分の罪を認めた時、ナタンを通して彼の罪は赦され、信仰によって義とされた旧約の人物の一人となりました。

 ★イザヤ書53章などによって、受難のキリストが預言され、罪のない神の御子キリストの身代わりの死による救いの道が明確に示され、預言されています。

 ★律法には、過ぎ越しの子羊の血による罪の贖いの道が示されています。イエス・キリストを信じる信仰による神の義は、このように律法と預言者によって、証されて来ました。

 ★22節「イエス・キリストを信じる信仰による義は、すべて信じる人に与えられ、何の差別もありません」。ユダヤ人、異邦人の差別もなければ、教育のあるなし、犯罪歴の有無に関わりなく、すべての人々が、イエス・キリストを信じる信仰によって罪を赦され、神の御前に義と認められ、天国の国民として受け入れられます。

 ★第4回の2章17−29節の講話で学んだ時、明らかにしたように、信仰による義認の教理は、イエス・キリストと使徒パウロによって始められた教理ではなく、旧新両約聖書の中で一貫して教えられて来た教理です。

 ★この教理は、新約聖書の中では明確な実体をもつ教理として証されていますが、旧約時代には、ひな形として、影としてあまり明確でない形で示されていました。そのため、アブラハムの時代からキリストの時代までの約2000年の間に、聖書の民ユダヤ人の信仰は歪んだ信仰となり、神の律法そのものが、伝統・伝説によってゆがめられ、神の義はその歪められた律法の行いによって獲得できると信じられるようになりました。

 ★これに対して、時が満ちて救い主として世に来られたイエス・キリストと、このキリストの復活後にキリストに出会って回心した使徒パウロによって「神の義、即ち罪の赦しはイエス・キリストを信じる信仰によって与えられ、イエス・キリストの十字架の贖いの血潮によって、価無しに信仰によって与えられることが明らかにされました。

Ⅱ人は信仰によって義とされる

 ★律法の行いによらず、信仰によって義とされる信仰義認の教理は、アブラハムにおいて明らかにされていましたが、時代の経過と共に忘れられ、時折ダビデの信仰体験などによって再確認されることがありましたが、再び忘れ去られながらも、主イエス・キリストとパウロによって光が当てられ、確立しました。

 ★しかし、キリスト教会の長い歴史の中で再び失われ、中世になってM.ルーテルによって再発見されました。ルーテルは修道士として修行を積んでいましたが、律法の行いによっては救いの確信が得られず、ロマ書の研究によって、神の義は信仰によって得られることを再発見しました。

 ★「パリサイ人と取税人のたとえ」(ルカ18:9−14)で、パリサイ人は「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています」。と祈りました。ところが取税人は、 宮の前から遠く離れて立ち、天に目を向けようともしないで、胸を打ちたたきながら、「神さま、罪人の私をお赦しください。」と祈りました。

 ★この二人の違いはどこにあるのでしょうか。それは、パリサイ人が自分の行いの義を信じより頼み、神の憐れみ、恵みを一切頼みとしていなかったのに対して、取税人は、自分の義に全面的に絶望し、ただひたすら神の憐れみにすがっていた点です。

 ★救いは、人の行いによらず、イエス・キリストの贖(あがな)いの御業、十字架上で流された尊い血潮によるのです。この二人のうち、義とされ罪の赦しを与えられたのは、自分に全面的に絶望し、全面的に主により頼んだ取税人でした。

 ★ダビデ王の場合も、主の憐れみに全面的に寄り頼むことによって、神の御前に義とされました。ダビデはユダヤの王の立場を利用して、家来ウリヤの妻バテセバを宮廷に呼び寄せ、ウリヤが出兵して留守の間にバテセバと関係を結び、妊娠させたことを知らされると、策略によりウリヤを戦死させ、バテセバを略奪しました。

 ★この姦淫と殺人の二つの重罪のために、ダビデは永遠の裁きに定められて当然でしたが、預言者ナタンがたとえ話を用いてその罪を自覚させたため、ダビデは心から遜って、自分の罪を懺悔しました。

 ★このダビデが行ないによらず、信仰によって義とされたことについては、ロマ書4:1−8が明らかにしています。このダビデの話の後で、パウロは、アブラハムを取り上げ、彼が信仰によって義とされたのは、彼が無割礼の時であったことを明らかにしています。

 ★このように、割礼のあるユダヤ人も、無割礼の異邦人も、ただイエス・キリストの贖いの御業を信じる信仰によって義とされ、罪を赦され罪のないものとみなされるのです。

Ⅲ 私たちは信仰によって律法を確立する(31節

 31節の「確立する」と訳されているギリシャ語は「確かなものにする」、「立証する」という意味ももっています。信仰によって律法が廃棄され、不用なものとして捨てられ廃棄されるのではなく、信仰は律法を確かなものとし、律法に命を吹き込むことになります。

 ★イスカリオテのユダはキリストと共に生活していながら、キリストを愛しても信じてもいなかったため、その行ないと生活で律法を破り、サタンを心に宿す者となりました。

 ★旧約聖書に登場する人物をとりあげると、エノクは65歳の時にメトセラを生み、その後300年の間神と共に歩み、神が彼を取られたので彼は地上からいなくなり、天に移されました(創世記5:21−24)。

エノクは65歳の時、信仰によって義とされ、神と共に300年歩み、神の律法を実生活の中で確立し、実を結ぶ生活を送り、天に移されました。

 ★アブラハムも、信仰によって義とされた後、約束の子イサクを燔祭に捧げる(最終段階で神からストップがかけられた)ことによって、神の言葉を身をもって実践し、神の律法を無効にすることなく、それを確立しました。

 ★ダビデも信仰の義によって律法を確立しました。彼は、ゆえなくサウロ王に命を付け狙われ、迫害され続けました。サウル王に復讐するチャンスが何度かありましたが、神に油注がれ王と任命された器に手をかけることをしませんでした。また、後にダビデの妻となるアビガイルの説得を受け入れて、自分を大いに侮辱したナバルに復讐することを取りやめ、「復讐はわたしのすることである」(ロマ書12:19;レビ記19:18)という神のみ言葉に従って、復讐を神の御手にゆだねました。ウリヤに関する罪を除いて、彼は神の律法を実践しました。

 ★イスカリオテのユダは、サタンを心に迎え入れたために、サタンの業を実践する者となりました。使徒パウロをはじめ、キリストの使徒たち、弟子たちは心に聖霊を迎え入れ、キリストの御霊が心に住む者たちとなったことによって、御霊の実を結ぶ者となり、キリストのブドウの木の枝となって、良い実と結ぶ者となりました。

 ★キリストを信じて義とされた私たちキリスト者には、聖霊によってキリストが私たちの心の中に住んでおられます。Ⅱコリント13:5でパウロはこう言っています。

 「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる。」Ⅱコリント13:5

 「もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。 」ローマ8:10,11

 ★私たち人間は、霊、心、体の三要素から成る三位一体的存在です。「体」すなわち、肉は罪の故に死んでいても、私たちキリスト者の中に住んでおられる聖霊が私たちの死ぬべき身体を生かし、神の言葉を実践し、神の律法を成就する力を私たちに与えてくださるのです。

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キリスト紀元2019年 2月 10日公開

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