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    ローマ人への手紙講話

〈9〉信仰義認(4)「艱難をも喜ぶ」

ロマ書5:1-11

 1このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。2わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。 3それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、 4忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。 5そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。 6わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。7正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。

8しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。 9わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう10もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。 11そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。

講話

 Ⅰイエス・キリストによって私たちは神との平和をもっている

 ★4:25「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえられた」

この事実によって、信仰によって義と認められ、罪なしと認められた私たちは、キリストによって神との平和をもっています。

 ★「取税人とパリサイ人のたとえ」のパリサイ人のように、行いを誇り行いの義を求めるなら、私たちは永遠に神の敵であり、神との平和は得られず、永遠の滅びに定められます。

 ★ダビデは、自分の犯した罪を隠して沈黙していた時、一日中うめいて骨ぼねは枯れはてたと言っています(詩篇3234)。「あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによってかれるように、かれ果てた。」詩篇324

 ★罪を赦されないまま、良心の咎に苦しみ悩まされる人生は、たとえ外見上は幸せそうでも、神のみ前では不幸であり、災いです。

 ★しかし、ダビデは預言者ナタンの警告の言葉を聞いて、自分の罪を主に告白しました。すると主は彼の罪と咎を赦されました(サムエル記下12:1-14)。その時、ダビデは主に感謝し、主を賛美して歌いました。

「1そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。 2主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。」詩篇32:1-2

 ★この時のダビデの様に、赦されない罪を抱えたまま一生を終える人は、災いです。心の中の平安・平和には、神との平和と人との平和と自分との平和という3つの平和があります。この3つの平和は、神との平和によってすべて解決します。

 ★キリストによって、神との平和という神の恵みの中に入れられた私たちは、神の栄光を待ち望んで大いに喜ぶ者となります(2節)。私たちが待ち望んで大いに喜ぶことの出来る神の栄光とは、何でしょうか。

 ★それは、一つは復活のキリストと同じ栄光の身体に変えられる事です。ピリピ3:21はこう言っています。「彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう」(ピリピ3:21)。

 ★復活のキリストと同じ栄光のからだ、すなわち今の私たちの弱くて古びた身体を、若々しく生き生きとした不死のからだに変えられます。

「彼(主イエス・キリスト)は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。」 ピリピ3:21

 ★私たちが待ち望む神の栄光のもう一つは、新天新地の到来と栄光の天の御国への入国です。たとえ、地上の生活が貧しく、病気などの災難に苦しむものであっても、それは、永遠の栄光に比べてみれば、束の間の苦しみであり、一瞬の産みの苦しみのようなものです。

Ⅱ艱難をも喜ぶ

 ★「艱難を喜ぶ」の原語は「艱難の中で誇る、大いに喜ぶ」という意味です。生まれながらの人間の性質は、艱難を恐れ、嫌悪し何としてもこれを避けようとします。しかし、聖霊の言葉聖書は、艱難の中でさえ喜ぶと言い切ります。

 ★その艱難と訳された原語「スリプシ」は「スリボー」(圧迫する)という語から派生した語で、プレッシャーであり、迫害、受難、苦悩の意味があります。

 ★「喜ぶ」と訳された語は、「誇る」という意味が第一の意味です。キリスト者は、艱難や迫害や苦難の中で喜び誇る者たちであるということです。

 ★キリスト者は、なぜ艱難の中で喜び誇ることができるのでしょうか。それは、艱難が忍耐を生み出すからです。その忍耐について、聖書はいろいろの祝福とめぐみを約束しています。

 ★ルカ21:19で、主イエスは「あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう。」と言っておられます。

 ★ヤコブ1:12「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。」と言い、

 ★ロマ書534 「患難は忍耐を生み出し、 4忍耐は錬達(新改訳は練られた品性)を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。」と言っています。

 ★ペテロはⅠペテロ1:6-7でこう言っています。6そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。 7こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。 」

 ★ロマ書5:5はこう言っています。5そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」

 「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」ことについて、テトス3:5-8はこういっています。

「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。 この言葉は確実である。わたしは、あなたがそれらのことを主張するのを願っている。それは、神を信じている者たちが、努めて良いわざを励むことを心がけるようになるためである。これは良いことであって、人々の益となる。 テトス3:5-8

 ★私たちの心に、聖霊によって神の愛が注がれているので、艱難が忍耐、忍耐が練達(練られた品性)、練られた品性が希望を生み出し、その希望が決して失望に終わることがないこと知っている故に、私たちは艱難をも喜んで耐え忍ぶのです。

Ⅲキリストは罪人だった私たちのために死んでくださった

 ★自分の身体から生まれた愛すべき子供さえ殺す親がいる時代ですが、それでも愛する自分の子供を救うために、自分の命を捨てる親もいるでしょう。しかし、赤の他人の命を救うために、自分の命を犠牲にする人は滅多にいません。

 ★ましてや、自分を憎んで意地悪をした人を救うために何かをしてあげようと思う人は、キリスト者ではない一般の人の場合考えられません。 

 ★正しい人のために、その人を救うために、自分の命を提供しようとする人はほとんどいません。自分に情け深い人のために自分の命を提供する人はいるかも知れません(ロマ5:7)。

 ★しかし、私たちが神の敵であり、罪人であった時に、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、神は私たちに対する愛を示してくださいました(8節)。「私が救う価値があるからキリストは私のために死んでくださったのだ」と言える人は、世界中に一人もいないのです。

 ★神の御前に全ての人が罪人です。キリストは全人類の罪をご自身お一人の身の上に背負って、その罪の身代わりとして、死なれました。このキリストの十字架の血潮を必要としない正しい人はキリストご自身のほか一人もいません。また、キリストの十字架の血潮がきよめることのできない程の巨大な悪質な罪は存在しません。

 ★ダビデは自分の軍隊の兵士であるヘテ人ウリヤが、ダビデ王とその国のために戦いに出ている時、王宮の窓から見た隣の家のウリヤの妻を見染めて、家に招いて姦淫の罪を犯し、ウリヤの妻が妊娠したと分かると、ウリヤを家に帰らせようとしました。しかし、彼が帰らないので、家来の将軍ヨアブに命じてウリヤを前線に送って戦死させるという大罪をおかしましたが、彼が悔い改めた時、主は彼の罪を赦されました(サムエル記上11,12章)。

 ★キリスト教会の迫害者サウロが、キリスト教会を襲撃してキリスト者たちを捕らえて、牢にぶち込んだり殺害したりしていた時、彼がダマスコに向かう途中、

復活直後のキリストが栄光の姿で彼に現れ、彼を罪と死と滅びの道から救い上げて、キリストの使徒の一人に加えられました(使徒行伝9:1-22)。どんな大きな罪もキリストの血潮によって清められない罪はありません。

 ★ただし、救われるべき私たちが、心へりくだってキリストの十字架はわたしの罪のためだと受け入れて信じない限り、誰一人救われません。

 イエスは言われた、「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」マタイ7章 13,14節



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キリスト紀元2019年 3月 19日公開

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