雑記(一般・音楽)

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People ask you for criticism, but they only want praise.
(人々は批評を求めるが、本当はほめてもらいたいだけだ)


自分も、批評を求めているようなことを書いたことがあるが、やはり悪く批判されたら凹むだろうし、やる気をなくすのかもしれない・・・「そこまでして、やりたいのか」と思うだろう。
いや、批判があるというのは、それだけ多くの人が見ている証拠なのだ。無反応よりはずっといいかもしれない。
万人が賞賛する作品というのは皆無に等しいだろう。作品には必ず批判がついてまわる。批判が無い場合、それはそれほど多くの人に見られていない証拠なのだ・・・

と、そうはいっても、この言葉はグサッときてしまった。

ま、でも、批判を受けたとしよう・・・それでも、続けることが出来るか?である。もし、続けることができたら、その情熱は本物かもしれない。
さらに、批判を受け入れ、それさえも取り込み、発展させていければ、もしかしたら、多くの人に受け入れられる作品が生まれるのかもしれない。
もち、それでも批判はついてまわるだろうが。

それに自分は、ほかの作品の批判はいっぱいしている(笑)・・・いや、全然興味なかったら、批判さえしないのだけど。

そーいや、プロを名乗る演奏家がいたのだが、あるサイトで演奏について批判をされたらしく、それを「削除してほしい」と依頼をしたようである。>本人でなく、マネージャーのほうが、と思う

そのサイトを見てみると、けっこう辛口、ただ、誹謗中傷ではなく、ちゃんとした批評文と見受けられた。
んで、その演奏家のところには「削除依頼があり、批評文を削除した」と書かれてあった。

この「削除依頼があった」というほうが、「批判文」よりも、悪い印象を与えてしまうと思う。
この演奏家は、批判さえ受け止められなかったのか、と邪推してしまうからだ。



科学的、論理的に説明できないとね・・・

昔、音を強く弾くと「音が汚い」と、先生(野獣先生ではない)からよく言われていたが、じゃあ、なぜ音が汚くなるのか、どうしたら綺麗になるのか、というのは、教えてもらえなかった。ただ「汚い」というだけである。

さて、今、私が考えられる理由としては
「ペダリングがまずくて濁った」「伴奏とメロディ、強弱の弾き分けができていなかった」「和音(重音)を弾く時、全部の音を強く弾いてしまった(指の独立が出来ていない」というのが考えられる。

音が汚い、といわれても、「ハンマーのフェルトが弦を叩くピアノの音」なのである。

とすると、ペダリングが拙かったか、または全部の音を強く弾いてしまいうるさかった、ということが考えられる。

当時、ペダルはそれほど使用していなかったので、ペダリングの問題ではないだろう。

オクターブ和音の場合、手が小さければ、まあ、音を弾くのが精一杯で、ソプラノ(たいてい小指で弾くことになる)だけ響かせるなどというのはできないだろう。
んで、指の独立は、その場でできるものではなく、ま、長い期間の練習が必要である。
ま、バッハをやれ、ということになるな。
けど慣れてくれば、一番端っこの小指を強く響かせるというのは、けっこうやりやすい。それよりも、真ん中の音を響かせるというほうが難しい。

音の綺麗、汚いは、指の独立が出来ているか、そうでないか、である。あとはペダル、ミスタッチで音が濁るということだろう。

タッチがどうのこうのというよりも、所詮、強弱の組み合わせだと思う。全部の音を、同じ音量で弾けば、うるさいので、汚く感じるだろう。
いかに細かく音量コントロールできるか、最終的に、これだと思うのだが・・・

だって、ハンマーのフェルトが弦をたたく、のだから。タッチをどうしようが、ピアノの音であることに変わりはない。
物理的にソフトを踏めば、多少、変わる。
音を変えたいなら、ピアノを替えるか、場所を変えたほうが、よほど、音は変わる。

「音が汚い」って、「感想を言うだけ」であれば、誰でもいえる。せめて、なぜ汚いのか、くらいは、言ってほしいものだ。
と、今のワシは思うわけである。

ミスタッチも、結局は音を汚くしてしまうので、やはり、できるだけミスはしたくないと、改めて思う。



とある日の練習日記

クロノを練習しているが、ほとんど、弱拍、裏拍から、フレーズが始まり、強拍がフレーズの終わりにくるので(ほとんど1拍目)そこを音を弱く(抜く)するのだが、うまく抜けない。強拍だから、かな。
ショパンのフレージングも、たいていそうなので、まあフレーズとはそういうものなのかもしれない。

「歌わせる」とか「音楽性を」とかいうが、フレージングをどうするか、フレーズの処理の仕方で、まあ、そういうふうに聞こえさせるようにできる。こういう言い方をすると、「なんて機械的な、心がない」と思われそうだが、実際に「いかに錯覚させるか」だと思う。
ピアノは、弦にハンマーが当たったら、音は減衰するのである。んで、ピアノの音はピアノの音である。音色を変えるのなら、ソフトペダルを踏むか、あとは、強弱、速度(間、ためる)で錯覚させるしかないのである。
いかに心を込めようとも、それだけで、歌われる音楽になって表現されるなんてことはないのだ。
すべて技術なのである。フレーズは細かく分けて、どこから始まりどこで終わるのか、音の強弱で細かく構築していくと、けっこう「歌われているように」聞こえるのだ。
クロノをそうしているが、これがけっこう難しい。いかにコントロールできるか、なのだな。
と、ま、ワシはそう勝手に思っている。



厳しい先生


ピアノで言えば、あんまり厳しいと嫌になってしまうが、厳しくないと、ま、ふつうは練習を怠けてしまうものである。とくに子供は、だ。
いくら、やさしく「練習の重要性を言い聞かせても」、やはり、自主性をもって持続して練習する子供はまあ稀であろう。言い聞かせても、やがては「また同じこと言っている」と耳を素通りしていくものである。
んで根底に「どうせ趣味なのだから」というのがあるので、親も厳しくはしない・・・
つうか、ワシだって、いつもいつも身を入れてきちんと練習を持続していくのは難しいのだから。
なので、よけい、他人には厳しくはできない。自分がそうできないのに(できなかったのに)、子供にだけ厳しくなどできない。親もそういう人多いかも。

つうか、厳しいってそんなに多くを求めていないが・・・毎日、集中して15ー30分の練習時間を求めることでさえ厳しいとしたら、やっぱピアノは今の時代には向かないよな。

さてさて、イチローのことが話題になっている。 自分を追い詰めるような発言をし、でも最後には有言実行とでも言おうか、さすがである。
大口をたたく、というのは、ボクサーの亀田兄弟もそうだが・・・でも、ちゃんと勝って、有言実行する。 ま、パフォーマンスもあるだろうが、けど、やっぱ逃げ口なくし自分を追い詰めているのだろう。
厳しい道を行っているよなー。大口叩いて、もし無様な結果になったとしたら、周りから嫌というほど叩かれるだろう。それを覚悟して大口叩くのだろう。
格闘家にも、そういう人は多いよな。 自分に厳しい人たちだ。

ああいう人たちは偉大だ。
ワシは逃げ道作る。つくってつくってつくりまくる。絶対に自分を追い詰めるようなことはしないし、できない(笑)
甘い道を行くのである。 つまり自分には甘いので、他人に厳しくなど出来ない。

なので「楽しく教える」というのは、口実で、逃げ道かもしれない。 他人に厳しくすると「じゃあ、自分はどうなのよ?」ということになるからだ。
それに加え、「厳しくして、それを嫌いにさせることを最低」と思っている人は多いだろう。んで「楽しくさせないのは先生に力量がないから、先生の教え方が悪い、先生の所為」と思ったり・・・
ワシも「感覚的なことしかいえない先生」「ダメとしか言わない先生」「なかなか曲を進ませない先生」に辟易したりしたし・・・いやみや皮肉を言ったり怒鳴ったり、は、やっぱいけないとは思うが・・・



技術

弾くのが上手い先生につきたい。

っていうと、なんだか技術重視の冷たい嫌な奴に思われるみたいだ・・・んで、絶対にミスを許さない、ミスをしないで弾くのが正しいと思っている邪道な奴に思われるようである(笑)
いや、なんとなく・・・これに反感をもつ、疑問をもつと思われる反応をいただいたことがあるので。

でもやっぱミスは少ないほうがいいだろう。ミスを絶対にしない、というのでなく、できるだけ少なく、ね。んで、ごまかせるくらいの力が欲しい。ノーミスはプロでも難しい。いや、ワシは、ミスばかりしているので、ミスしないで弾けるようになりたいものだと思っているだけである。やっぱ、とまったり、音をはずしまくったり、かすれたり、忘れたり・・・で、自分には「音楽性」という感覚的なことがいまいちよく分からないので(なので、自分は音楽性はないかもしれない)、せめて「あんまりミスしないで弾ける」くらいになりたいと思うだけである。

けど、上手く弾ける先生につきたいって、当然だろ・・・と思うのだが。
つうか、感覚だけで弾けるようになるなら、先生っていらないだろう・・・

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なんで今更、こんなことを書いたのかというと・・・

「昔」を否定しすぎると、やっぱ、うまくいかないかも、と思っただけである。
昔が良かったとはさらさら思わないが、すべて悪かったとも思わない。

昔はピアノの世界も「技術重視、個性がない」などと言われていたが・・・
んで、だんだん「楽しく、個性が大事」ということになってきたが、またそれも疑問視されだした。今はそんな時代だ。

やっぱ技術がないと、個性もへったくれもないし、「個性が大事」というよく分からないことを言われても困るよな・・・個性が一番であるなら、みんな最初から個性をそれぞれもっているわけだし(つまり、何から何まで同じというのありえない)
つうか、技術がないと、こうしたいと思っても表現できないだろう。
こうしたいと思うのが「個性」というのか、それは分からないが。
んで「楽しく」持続できればこんないいことはないが・・・まあ、なかなか上手くいかないものである。


縛りと自由について

ワシらの世代の親は、「教育を満足に受けさせてもらえなかった」「もし、受けさせてもらえたなら、自分はがんばっただろう」と思っているので、 子供に期待をし、教育を与え、がんばりがたりないと「もっと、がんばれ」とシリを叩き勝ちであった。 「教育を受けられるだけでありがたいのに、もっとがんばるべき」「自分なら、もっとがんばった」と 、そういう風に思っている。幻想を抱いているのだ。

さて、ワシらの世代は・・・
教育は受けさせてもらったので、自分がどこまでの能力かが、分かる。 んで、教育をそれほどありがたく思えなかったりする。 実際、学校の授業で覚えたことや教わったこと、勉強したことを、ほとんど今は忘れているし、役に立っているのかどうか・・・(もち、仕事に、役に立っている人もいるだろう)
本当に学校での勉強は必要だったのか?とも思ったり・・・

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ピアノの場合
自分の親の世代は、それこそ「ぜいたく品」として、ピアノを習うなど夢の夢であっただろう。そして、自分の子供には「夢でもあったピアノをぜひ」ということで、やらせる。 だから子供が練習をさぼったり、がんばらないと、腹が立つ。 自分は出来なかった分、腹が立つだろう。 そして、自分なら、もっとがんばってやっただろう、と思う。

んが、まあワシの世代は、「ピアノ嫌い」な人もけっこういたりする。
ピアノを嫌々やらせられ、そして思うのだ。
「自分の子供には好きにさせてあげよう、けっして無理強いはするまい」と。
「子供の自由にさせてあげよう」と。
「子供を縛ったりしない、自主性に任せて、嫌いなら嫌いでやめればいい、好きなことをやらせてあげたい」と。

嫌々やらせられて、精神的にダメージを食った人もいる。 親の言いなりになって専門に進んだはいいが、じつは合わなかった、という人もいる。
無理強いは良くない、自由に、好きなことを、伸ばしてあげようと、まあ、この世代は思うのだ。

そして、今の時代になった。

けれど、まあ、自主性に任せては、たいていの子供は根気の要る練習や勉強はしない(一部は、興味を持ち、勉強する子もいるだろうが)
ひとつのことを続ければ飽きるし、嫌になるだろう。
新しいことを見つければそっちに興味をもつだろう。
んで、じゃあ、次はそっちをやらせてみよう、ということになるが、それも飽きて・・・その繰り返しになるかも。

いや、それならそれで別にいいのかもしれないが、なかなか、モノにならないだろう。
でも、色々とやってみれば、何か合うものが見つかるかもしれない。選択肢は広いほうがいい、と思うが・・・ 結果が出るまで、時間はかかる。ものになるのか、見極めるのに。 んで、やっぱりそれまで「練習、勉強」は必要である。

ほどほどの縛りと、ほどほどの自由が、あればいいのだろうが
「ほどほど」が分からなかったりする・・・


ほりえもん騒動について考えたこと


極端な表現
ほりえもんが「お金で人の心も買える」と豪語していたことについて、今、世間では、意地悪く見ている人が多いかもしれない。
本心なのかは知らないが、極端なこと(過激なこと)をいって目立つ、宣伝する、というのは、よくある手法だ。

本なども、中身はもちろん、タイトルや帯なども、過激なことを書いて、注目させて、売る、というのは、まあよくあることだ。

んで、多くの人は「偽善」を嫌うので、ちょっと過激に本音、正直っぽいことを言ったり、書いたりすると、割と支持を得られたりする。「偽悪っぽい」ほうが、本音っぽくて、支持を得られたりするのだ。
もちろん、嫌われる場合も多いだろうが・・・関心もたれないよりはずっといいだろう。

まあ、昔に比べたら、ほんと、本音の時代になった。建前を言うと、きれいごと、偽善と言われる。本音っぽいことを言ったほうが受けるのだ。

けど、本音の時代も、けっこう、辛いで・・・んで、本音って、言われると、けっこう傷つく場合もあるでー

本音・・・それは信頼して言っているのか、関係がどうなってもいいから言うのか・・・わりと、その人にどう思われようと別にいいので言いたいことを言っちゃう場合もあるんじゃないのか?

とまあ、なんだか、散漫なカキコになったが・・・けど、本音の世界はキツイ・・・それを言ってはおしまいよ、というやつである。
ようするに、建前と本音のバランスだよなーどっちかに偏っても、どっちも息苦しいし生き辛い。

ま、話を戻すが
極端に表現しないと伝わらない場合もあるし、極端に表現してこそ、おもしろいこともある。

ほりえもんの「お金で何でも買える」と言い切ったことに対し、やはり「ほおおー、そこまで言い切るか?」と関心もったけれど、もし「お金で買えるものは多いが、買えないものもある」と当たり前のことを言ったとしたら、それは心に残らないだろう。逆に「なにを当たり前のことを言ってるんだ?」となるだろう。

しかし、ほりえもんのブログが人気らしいが、話題になっているライブドア幹部の宮内氏のブログも、かなり過激な表現がされているらしい。
「アホ企業」とか「最悪なジジイ」(最悪だったかな?ちょっと定かでないが、まあそのような意味)という言葉が見られるそうだ。

たしかに、過激な言葉は人を注目させる。私もHPで、毒のある表現をすることあるが、それはこう書くと「おもしろいだろう」という演出というか下心もある。

ただ、ライブドアの場合は・・・やっぱ嫌われたり、敵をたくさん作るのは、あんまり良い方法ではないのでは?と思ったりする。

もち、アホ企業や最悪なジジイは、本音なのだろう。けど、まあ、心当たりある企業や、心当たりある老人やおじさんたちが、読んだら、まあいい気分ではないだろう。

個人が、自分を売る場合、公式HPやブログ、著書で、過激発言をし注目をあび、宣伝する、という方法はよくあるけど、一企業の組織を背負っている人間がやると、ちとまずいのでは、と思ったりする。

きっと頭の良い人は、過激な表現をせずに、本音では「アホ企業」「ジジイ」と思っていても、表に出さず、相手を持ち上げ利用する手を考えるのかもしれない。

もち、切り捨てるつもりで、「アホ企業」「ジジイ」と本音を書いてしまったのかもしれないが・・・進んで敵を作るのは、もしかしたら、あんまり賢いやり方ではないかもしれない。

ところで、過激な表現をする人は、コンプレックスをかなりもっている人だと思う。ワシもか(笑)
>もち、単に宣伝のため、売るため、とクールに割り切っている人もいるだろうが。

例えば、東大にいってる人は、世間からみれば、勝ち組だが、東大の中で、学部によって(偏差値が違う)勝ち組、負け組があるらしい。
どこにいっても、勝ち負けというのが、ついてくるのだな。
東大いっているなんて、すごいね、と単純に思ってしまうが・・・上の世界では、上の世界なりに勝ち負けがあり、人によっては、コンプレックスをかかえこむことになるのだろうと思ったりする。

自分も、性格上、どの世界に行けても、『自分は負けている』とコンプレックス持ってしまうかもしれない。

もしかしたら、ひとつの手段として、お金もちになる、知名度を上げることで、コンプレックスが癒されるような気になるのかもしれない。んが、そう簡単に癒されるものでもないので、だんだんエスカレートするのかもしれん。

ところで勝ち組といえば・・・
雅子様だって、勝ち組のなかの勝ち組だろう。容姿もいいし、頭も良いし、キャリア抜群、嫁ぎ先もすごいわけで、一生、お金に困ることなどない・・・地位も身分もトップクラス・・・が、でもまあ、幸せそうには見えない。もち、マスコミからの情報による想像であるが。

いや、ちょっと、ほりえもんやコンプレックスの話題とずれるけれど・・・勝ち負けの話題として、雅子さんのことを、ふと思い出したのであった。



語る(書く)ことについて

例えば、ピアノ関係で「某曲をあきらめた。いまはやる気がなく、あんまり練習していない」と書く。
「あ、そう」と、べつに何も感じない人もいるだろう。
ある人から見れば、「なんて贅沢なこと言ってるんだ」「なんて甘いことを言ってるんだ」と思われるだろうし
ある人から見れば「ひょっとして・・・あてつけ?」「じゃあ、私など、すべての曲あきらめなきゃならないわね」と、皮肉に捉えられるかもしれない。

あんまり人がどう思おうと気にせず書いているが、たまに「悪くとらえられている可能性あるな」と思うときもある。
書かないのが安全だが、まあ、どう思われようと仕方ない、とも思うしかない。 悪くとらえる人もいれば、なにも気にしない人もいる。
それでも書きたいのだから、書くのだろう。 面倒だ、と思うときは書かないし。

んで、ワシは、自分の立場で語るので、漫画なら、作り手擁護にまわってしまうし、ゲーム、小説、ドラマ、映画、アニメなら、受け手として作品批評や正直な感想を語ることになる。 ので、まあ、偏っているのは当然なのである。
HPやブログは、自分にとって、かなり自由な世界である。だから自分はこのように語るのだろう。

それでも、本家のエッセイ集は、完全に更新ストップした。 最初はこのエッセイがHPの売りだったのだ。

けど、例えば、生き方について語ったりする(お金よりも時間がほしい、とい書き方。べつに「金儲けすること」を批判などしていない。ワシも若い頃は第一優先に金を儲けることを考えていたし) それについてBBSに皮肉的なカキコ(「お金をのこと考えなくていいなんてラクでいいね」「あなたに比べて自分は不幸だ」というような内容)があったのに、びっくりしたことがある。少なくとも、私はその反応カキコは皮肉に思えた。

けど、公開して語る、というのはそういう反応もあることも覚悟しろ、ということなのだろう。自分だって「皮肉的」に語っている。要は、そこまでして自分は語りたいのか?なのだろう。

まあ、それでも、エッセイ集はずっと続いたが、やがてネタがなくなり、書くとしても以前書いたことと同じ内容になり、んで、無理してまで、人を不愉快にさせたり、人に悪く捉えられる可能性のあるエッセイを書くことはない、とも思った。

それでも何かを語るときは、自分の意見や考えというよりも、テレビでは、新聞では、ほかの人はこう言っていた、というのを書く。んで、自分もそう思う、という風に書くほうが、安全である。そう悪く捉えられない。
んで、現況についても、あまり多くを語らないほうが安全である。悪く捉えられる可能性と、人を傷つける可能性があり、その上、やはり個人情報になってしまうからだ。
なので、以前よりは語らなくなった・・・のかもしれない。



プロの演奏家とは・・・
HP上やBBSにプロのピアニストの演奏の感想を書いたことがある。プロの演奏家に対してだから書けるのである。
反対を言うと、プロのピアニストならば、正直に感想を書かれるのは当然であり、
もしも書かれるのが憚れる場合、そのピアニストはプロではないと、書くほうも思っているのだな。

いや、この世界、プロとアマの境目があいまいだけど、「演奏家に対し、正直な批判が出来るか」・・・この基準って、ありだなと。

お金をとって、演奏する人をプロと呼ぶのだろう、と普通は思うが、じつは、先生が生徒にチケットを買わせたり(しかも生徒は、自分の分だけでなく何枚も負担する)場合がほとんどだったりする(笑)
けっこう、音大の先生クラスだとこういったこと多いのだが・・・
つまり、名前を出し、正直な感想を書いていいと、客に思わせることが出来る人が、プロのピアニスト(演奏家)なのだと思う。
ま、先生の場合、先生の名前を実名で出し、演奏の感想をこのように公に書ける人、いないだろう?
でも、本当のプロこそ、批判もある。

批判感想が無い場合、演奏家と客の関係が「本当に感想を書くのは憚れる関係」にある、ということで、演奏家(先生)も、批判が全く無い場合のほうが「自分はプロと思われていないかも・・・」と思ったほうがいいかも・・
プロの演奏家は、もし感想で批判されても、それを「誹謗中傷」と的外れなことは言わないだろう。

そういえば、中村紘子さんが、ピアニストにとって「体力」が一番に大切と言っていたけど、2番目くらいに「精神力の強さ」がくるのかもしれない。批判されて、もちろん一時はへこむだろうけど、そこから浮上する力を持っている強さがある人が、プロの演奏家としてやっていけるのかもしれない。
それとやっぱ「私が一番よ」という自信も必要だろうなー・・・



上手い演奏とは・・・
なにをもって「上手い」というのか、というと、けっこうあやふやだったりする。
音をはずさないで、というのなら、機械が弾けばいいのだから。

自分が「こう表現したい」と思ったことを、思うとおりに表現できる技術を持っている人を「上手い」というのかもしれない。
あるいは人から「こういう表現で弾いて」と言われて、その表現ができる人。

そして表現する前に、ある程度「間違えないで弾ける」というのが絶対条件だろう。「一音も間違えるな」ではなく「ある程度間違えないで弾けること」です。じゃあ「ある程度」というのは、どの程度のことをいうのか、となると、これはもう文章で表現するのは難しい(笑)


実技試験の点数
今考えれば、べつに点数良くても、自己満足なだけで、ピアニストになれるわけでもなく、あまり関係ないんだよなあ。

うちの音高音大(あくまでも当時の話)では、試験官は、65点、70点、75点、80点、というふうに、点をつける。5点単位。
そして、5人いる試験官の合計点を5で割ったのが、実技試験の点数になるのである。
ちなみに80点以上がピアノ演奏家コースに入れるぎりぎりのラインである。

ワシも80点を取りたかったが、その夢はかなわず(笑)音高の卒業試験で79点とったのが最高である。「誰じゃー、75点つけた先生はーーー?」
なので、「あと1点」という思いが、点取り虫にさせたのかもしれない。試験前(ピアノ演奏家コースへのオーディションかねた試験)の練習は、ちょっとしたミスで吐き気を催すほど、心が削れた(笑)
そのころは、どうしても点数が欲しかったのだ。練習での、ちょっとしたミスも気になり「これじゃあ、80点は無理」と、ストレスであった。
80点ラインは、いちおう最低でノーミスでいかないと、とれないのである。
んで、結果は、バッハの平均律で、見事、左手を忘れて、とまらなかったが、一部分左なしで弾いたのだ。最悪のできであった。

でも、ピアノ演奏家コースに入れる最低ライン80点ぎりぎりをとったとしても、後が続かないだろうし、これもただの自己満足なのである。「あたいは、80点とったのよーーー」と。でも自慢にならない、つうか、かえって、みっともないよな。

んが、やはり、まだ「点取り虫的な見栄」がどこかにあるのかもしれない。

芸術を点数で表すなんて、まちがっちょる・・・のだが、やはり試験は点数評価になるんだよな。
完ぺき主義を思われる人もいるかもしれないが、それとはちょっと違うかもしれない。

点数にこだわる、というのは、邪道のようだが、まあ、励みにもなった。もち、ストレスと表裏一体である。目標でもあったので、練習にも気合が入った(笑)
というか、目標が、簡単に設定できるのだ。目標があいまいだと、自分でもわかりにくい。
たとえば、表現豊かに演奏できるようにしよう、という目標は、とらえどころがなく、あいまいで、先が見えないし、達成感もわかないだろう。

けど、点数はわかりやすい。目標が80点であれば、その80点をとった段階で達成感が味わえ、とりあえず自己満足がえられるのである。
もち、そこからまた次の道のりは遠いし、演奏に終着点はないのだけど
点数をつける、というのは、いい面も悪い面もあるのだな。コンクールだって順位をつけるしなあ。数字での評価、本当は邪道だけど、必要悪なのかもしれない。でも、本当に才能ある人や天才はそんなの関係ないだろうな。

今は、弾きたい曲を弾きたいときに練習するってな感じで、モチベーションは必要ない、つうか、好きな曲を弾きたいから弾く、という単純かつ純粋な動機でピアノにむかっている。
が、やはり昔は、「いい点数がほしい」「速く指がまわるようになりたい」「(技術的に)難しい曲が弾きたい」という、割りにビートマニア的?動機で、ピアノに向かっていた(笑)
「あたいは、こんな難しい曲を弾いているのよーーー」と自己陶酔、熱く練習に励めるのだ(笑)
うん、自己陶酔、自己満足って絶対必要だな。これがないと、長続きしない。
自己陶酔、自己満足って、悪い意味でとらえられてしまうことが多いけど、これがないと、始まらないのだ。つうか、これが一番、強くて純粋な動機になって、練習に励めるのかもしれない