記するということは他人に伝えるというより、将来の自分に伝えるということなのかも。
4年前に書いたものです。
これ本当に自分? 他人みたいですねえ。
まったくもう。(何がまったくなんだか。ブツブツ。)
勤続10年まじめな会社員の小さな小さなグレートジャーニー
1997夏
クイーンシャーロットの記
プロローグ
今度の旅の目的地はカナダ太平洋側、バンクーバーとアンカレッジの中間に位置するクイーンシャーロット諸島。Sea
Kayaker誌のアウトフィッターリストのページからクイーンシャーロットのカヤックツアー屋を見つけ、5泊6日のツアーを国際電話とFAXで申し込んだ。10人ほどのグループでキャンプしながら海岸線をシーカヤックでツーリングするツアーであり、先住民族ハイダの居住地跡という見どころも含まれている。ツアーではただ一人の日本人であるため、英語でのコミュニケーションに難もあるだろうけれど、カヤッキングという目的がはっきりしていれば大した問題ではない。
そしてもう一つの目的は「宇宙船とカヌー」でジョージダイソンがバイダルカで旅した沿岸水路を自分の目で見ること。むろん2週間ちょっとのリフレッシュ休暇でそこを訪れようとする会社員には、ジョージのようにそこでカヤックを漕ぐことなど出来ず、フェリーから眺めるのが関の山である。でもそれはそれでいいのである。
1日目(7月16日)
さてバンクーバー空港。
今日のうちにバンクーバー島へ渡ろうか、それともバンクーバーの町で1泊しようか、と考える間もなく入国審査から到着ロビーにはき出されたところでドミトリーの客引きにつかまった。朝食付き1泊CA$15、場所はダウンタウンのガスタウン。バスディーポまで歩いて行けることを考えると悪くない話だが、即答せずに「考えておくよ」とそこを離れる。慎重に行動するつもり。両替所で当面の行動費にトラベラーズチェックを換金し、本屋をのぞき時間をおいてから、到着ロビーに戻り、さっきの客引きを観察する。スーツケースの旅行者ではなく、ぼくのように登山用ザックを背負った、お金なんか持ってませんよ風のいわゆるバックパッカーに声をかけているようだ。ボッタクリではないようなので彼に1泊世話になることにする。
ふたりで市バスに乗りガスタウンに向かう。「オーストラリア、ニュージーランド、ロスアンゼルス、シアトルを経てバンクーバーには数日前に来たばかりだ」と、アンクルと名乗るポーランド人が言った。その放浪は計2年半におよんでいるとのこと。結局今日彼が空港出口でゲットしたただひとりの客がぼくだった。
「ハロー今日のVictim(犠牲者)ね」軽いジョークが初めてのドミトリーのオフィスの挨拶だった。2段ベッドが2台の4人部屋に荷物を置き、表通りに出てみる。
ガスタウンはギフトショップが並び、観光客がカメラのシャッターをきるバンクーバーダウンタウン一のスポットだ。しかしこれからクイーンシャーロットの自然を目指すぼくには何の魅力も感じなかった。ただポストカードと切手がほしくて歩いてみたが、5時を過ぎていて切手を売る店はすでに閉まっていた。
1階のプールバーからは真夜中までバンドの音がドカドカとやかましく響いていた。
2日目(7月17日)
ドミトリーの黒人に隣りのブロックへは危ないから行くなよ、と注意されていたがそれは夜のことだろうと考えていた。朝の8時に何が起こるものかと気にせずにバスディーポに近道するため、そのブロックを歩いていた。すると赤信号で立ち止まったところへ黒人の若者が寄ってきて「ファナ、ファナ、マリファナいらないか」とスパスパ吸う仕草をする。「いらない、いらない」というと相手はあっさりと離れていった。危ないという事ではなかったが朝からこんなこともあるんだな。
バスディーポからバンクーバー島ナナイモ行きのバスに乗る。そのバスのままフェリーにも乗れるので世話がなくていい。ダウンタウンからスタンレーパークを抜けライオンズゲートブリッジを渡り、ノースバンクーバーからウェストバンクーバーのホースシューベイへとハイウェイを走る。ノースバンクーバーからは左に海を見渡す山の斜面に沿った道。都会を脱出し広い海と青く晴れた眩しい空を眺めるとなんとなくうきうきし、ようやく旅が始まったなあと実感する。
フェリーターミナルに近づくと乗船待ちの車が数百メートルの長い行列を作っている。キャンプ道具や自転車を満載した車。シーカヤックを積んでいるのもある。そしてなにより日本と違うのはキャンピングカーの多いこと。ちょうどこの国の夏休みの旅行ラッシュ時期らしい。おそらく何便か待たねば乗船できないような、うんざりする車の列を見下ろしながら、ぼくの定期路線バスは専用レーンで優先的に一番前に出る。優越感。
バスに乗ったまま乗船したあとは1時間半船のデッキで眩しい海の景色を眺めて過ごす。同じバスに乗っていたひとに、ぼくが昨日から気になっていた事を聞いてみた。7年前のユーコン行の残りのカナダドル紙幣を持ってきていたのだが、それが昨日両替で入手した紙幣と違っているのである。新しい方にはキラキラに光る部分がある。2ドル紙幣もコインに代っている。古い紙幣も問題無く使えるそうだがあやしい外国人に思われたくないので使わないことにする。ユーコンもずいぶん昔のことになっていたのだ。
ナナイモのフェリーターミナルからバスは15分ほど町の方に走り、12時30分バスディーポに到着。ここで島を北上するバスに乗り換えるのだが、乗り継ぎに2時間ほどあるのでその間に町へ出てランチ。
軽食堂のカウンターでサンドウィッチを注文すると「パンは何にする?」とお姉ちゃん。でもぼくはサンドウィッチ用のパンは食パンしか知らない。お姉ちゃんはわざわざ両手に2種類持って見せてくれるので左手のブラウンをたのむ。ほんとうはどっちでも良いのだけれど。
ナナイモは南北約1000キロの細長いバンクーバー島の中間より少し南に位置する。町は丘の斜面にあり、建物のすきまから見える白いボートが行き来する海の風景は絵のようにさわやか。
ぼくのたどるルートはこの島を北端の町ポートハーディまで北上し、更にフェリーでインサイドパッセージをプリンスルパートまで上がり、そこでフェリーを乗り換えインサイドパセージ地帯から150キロ離れて太平洋上に浮かぶクイーンシャーロット島へ渡るというもの。そこでカヤックツアーに参加するわけである。
3時発のキャンベルリバー行きのバスに乗り込む。キャンベルリバーまでは155キロ、3時間弱の道のり。バスが快調に走り出し、バンクーバーから離れるほど、日本から遠ざかるほど自分は旅の人になり落ち着いてくる。気持ちよく居眠り。
6時前にキャンベルリバー着。ビジターインフォメーションでキャンプ場の場所を聞くと、町から出て5キロほど山の方とのこと。スーパーで買い出しをしてキャンプ場まで歩く。背にザック、前にデイパック、手に買い物袋、計10キロを背負ってかかえると、このところほとんど歩くことのなかった体にひしひしとこたえる。上半身の体力は毎週末のパドリングで維持しているとしても足腰の衰えは情けないけど明らかだ。
キャンプ場にたどり着き、入口から一番近いサイトに入りテーブルに腰掛けほっと一息。するとすぐ管理人の女性がやってきて、このサイトは今クローズ期間だから他へ移れと言う。でも町から歩いて来て、もうクタクタで動けないと言ったら、じゃあここでいいよとすんなりOKしてくれた。
今回の旅行で初めてのキャンプ。ひとりで使うには余裕のある2人用テントの中で荷をいつものようにちらかすと、どこへ行っても自分の空間が作れて気持ちが落ち着く。雨さえ降らなければキャンプが一番。
3日目(7月18日)
自分の部屋でぐっすり眠ると足腰も復活し、1時間かけて町まで歩く。
バスが出るまで時間があるのでインフォメーション内のギャラリーで絵を眺め、海辺の公園でくつろぐ。やっと切手が買えたので日本の友人に絵ハガキも出した。スーパーでポテトチップと日本以外では珍しい缶コーヒーを買う。「ぼてっ」とふくれた財布から小銭を「じゃらじゃら」とカウンターにぶちまけ、レジのおばさんに小さいコインから取ってもらい財布を軽くした。時々こうしないと、買い物のつどもらう釣銭で、どんどん財布が重くなってしまうのである。
キャンベルリバー12時20分発。ポートハーディーまでは247キロ、4時間弱。列車のようにジャバラで2両に連結された大型バス。
キャンベルリバーより北になると道路も狭まり、だいぶ交通も減ってきた。風景の中で自然の占める割合が、人間の活動よりも大きくなっていく。
4時ポートハーディー着。ビジターインフォメーションで明日乗るべきプリンスルパート行きのフェリーの出発時刻と、フェリーターミナルに一番近いキャンプ場の場所をたずねる。キャンプ場まではタクシーを使わねばならない距離がある。出費をおさえるため同乗者をさがす。入口にいたバックパッカーに声をかけると案の定、今晩はキャンプし明日のフェリーに乗るつもりだという。同盟成立。この島の端までやって来る人間の行動パターンはだいたい同じだ。
スーパーで買い出しをしてからキャンプ場へ。キャンプ場の受付けをKuni、
Japanときわめて簡単に済ますぼくとは対照的に、フルネームとアドレスを几帳面に記入する彼はドイツから来たシグフレッド。「英語は学校で習っただけ」と言うが、ほとんど不自由なく使っていた。ネイティブと比べて彼の英語がとても聞き取り易いのは、ぼくと同じに教育英語として身につけたものだからであるようだ。シグは独占企業であった電話会社を去年リストラされ、次の仕事のため資格の勉強中とのこと。つまり今は失業者でありながら、4週間のバカンスでカナダ、アラスカを旅行しているというのだ。うらやましいこの余裕。
木立ちを抜け内海を臨む海辺へ出ると、9時の遅い夕日を見るために、やはり何人かが静かに岩場にたたずんでいた。
4日目(7月19日)
6時前に起き、そそくさとテントをたたむ。
きのうのタクシードライバーが予約してくれたバスでフェリーターミナルへ着く。事前に入手していたフェリー運航スケジュールには要予約と記されていたのでちょっと気になっていたが、歩きの客にはまったく関係ないことだった。長距離フェリーが発着するには意外なほど簡単で静かなターミナル。
CA$102のチケットを買い乗船。これでひと安心。クイーンシャーロットまで陸路と海路をたどる行程で、今日のこの船に乗れなければ、カヤックツアーの集合日時に間に合わなくなるからだ。
プリンスルパートまで16時間、450キロ。オンタリオから来てやはりクイーンシャーロット諸島へカヤッキングしに行くマークとシグフレッドと一緒に席を確保し船旅のひととなる。朝の曇り空はやがて霧雨に変わった。この沿岸水路地帯は多くの島々が太平洋の波を緩衝するため海面はとても穏やかである。しかしまた雨の多い地方としても知られていて、それに育まれた深い森林は、レインフォレストと呼ばれている。この旅ではじめて雨に降られた。そう簡単には止みそうにないほど雲は厚い。いまのところは船の中だからいいが先が思いやられる。
船は右にも左にも数キロの範囲に陸地が見える狭い海を進む。途中3回逆方向へ行く大型客船とすれ違う。アラスカからアメリカ本土方面へ行くものらしい。ほかにヨットや貨物船も頻繁に見る。この海は交通の要所であるようだ。ここをカヤックで時間をかけ長距離ツーリングしたなら面白いだろうな、なんて夢を思い描いてみるがどっちを向いても同じような風景なのですぐ迷子になりそうである。とはいえ夢をふくらませながら船旅の時間をやり過ごす。
インサイドパッセージの佳境にさしかかり、水路が2キロ程にまでせばまる。甲板で乗客達がなにやらざわめいている。「なんだなんだ」とかきわけてみると、ほんの一瞬高く水面につき出た細長い背びれが見えた。「オルカだ」カメラを構え霧雨の中で次のチャンスを待つが、再びぼくの前には現れてはくれなかった。
カフェテリアでチキンナゲットとポテトの昼食。ちょっと高いが量は満足。このところキャンプ生活でパンや缶詰等簡単なものしか食べていなかったので、温かい食事で贅沢気分にひたる。
夜の11時、本格的な雨の中プリンスルパート着。プリンスルパートでは漁業団体がアラスカフェリー社に何かを抗議するべくアラスカ行きのフェリーを漁船で取り巻いており、その様子は新聞やテレビのニュースになっていた。
アラスカへ向かうシグフレッドと別れ、マークと覚悟を決め、キャンプ場へと雨の中に歩き出す。すると駐車場から出ないうちにボルボの中国人おばさんに、乗りなよと声をかけられる。おばさんはホテルの経営者であり、2人でCA$20にしておくからうちのホテルに泊まれと言うではないか。安い。即決。ずぶ濡れのバックパッカーを哀れんだというより中国人のたくましい商魂と感じられるが、とにかく格安でベッドに寝られることに感謝。
5日目(7月20日)
雨は上がり朝から青空。クイーンシャーロット島へ渡るフェリーは明日21日なので、今日1日ここでフリーである。今晩もマークとこのホテルに泊まることにして、昼は別行動とした。
町のメインストリートは30分もあれば端から端まで歩ける規模。アウトドアショップに入りカヤックをひやかす。カレントデザインズのSSがCA$3150。日本の価格と比べると船自体は安いがほかの商品価格や品揃えは日本と変わらない。
インフォメーションセンターと一緒になった博物館を見物。この建物はハイダのロングハウスと呼ばれる木造建築の工法を模して造られている。太い丸太がそのままがっしりと組まれたもの。
スーパーでフライドチキンとパンとりんごを買って海岸に下り、ひとりでランチ。海を眺めながら日本に絵ハガキを書く。天気も良く気分爽快。
夕方ホテルに戻ると、女友達と夕飯に行くと言うマークが、一緒にどうだと誘ってくれた。いそいそとついて行く。マークがフェリーの中で知り合ったというドンナは1週間の休暇を過ごすためバンクーバーから来ていた。彼らの提案でチャイニーズレストランに入る。「青島」というブランドの中国ビールを飲み、酢豚、から揚げ、チャーハンの大皿をとり3人で分ける。ふたりとも上手に箸を使うのが意外だった。37才のマーク、推定35才のドンナ、32才のぼく、同世代の観点でそれぞれの考えや生活を語る。料理の終りにおみくじ入りのお菓子が出た。ぼくは将来金持ちになるそうだ。
6日目(7月21日)
マークは14日間のカヤックツアーのための食料の買い出しに出かけた。彼のカヤックツアーはぼくのと違い食料は自前なのである。
朝からの曇り空は昼から本格的な雨になった。昨日と打って変って憂うつ気分。3時、レインウエアを着てザックにカバーをかけ、雨の中ひとりでフェリーターミナルまで歩く。
夜9時発のフェリーを、本を読みながら待つ。しこたま食料を詰め込み重くなったザックを背負ったマークも来た。
1時間遅れて10時出航。夜なので景色を見ることもできず、床にマットとシュラフをひろげ眠る。
7日目(7月22日)
朝6時、スキッジゲイト着。マークの友人が車で迎えに来ていたのでクイーンシャーロットの町まで便乗させてもらう。3日間いっしょに過ごしたマークと別れる。いろいろ親切にありがとう。
インフォメーションセンターでぼくの予約しているツアー屋「Queen
Charlotte Adventuers(QCA)」の場所を教えてもらい歩いて行く。
QCAのオーナーはひとの良さそうなおばさん。日本からやりとりしていた自分のへたな手書きのFAXを見るのは恥ずかしかった。
明日からの6日間のカヤックツアーの説明を受ける。ガイドは2人付くが事故に対する責任は客持ちであること、緊急事態で水上機をよぶと高額な金がかかること、等々納得して誓約書にサイン。他人どうしでウイルダネスに入るので、こういう形式的な信頼関係も重要である。「クマも出るけどナイスなクマだから大丈夫よ」と言っていた。5月にNHKがこのQCAを使い、島を取材していったとのこと。いったいどんな番組だったのだろうか。
QCAが予約してくれたモーテルに入る。一番安い部屋でCA$57。島なので高いのは仕方がない。でもおばちゃんが7ドルまけてくれた上、おやつにバナナとりんごをくれたのでうれしかった。
宿には他に4人の日本人が泊まっていた。ドアをノックし話をしてみると材木業界の人で買い付けの仕事に来ているらしい。カヤックのカの字も、ここが自然豊かな貴重な島であることも、ハイダの聖地であることも知らない人達であった。おもしろくないのですぐ辞する。日本人によってこの島の財産が買われ切られてゆく現実をまのあたりにしてやるせなくなる。日本語が懐かしいでしょうから話してみれば、と勧めてくれたおばちゃんに申し訳ない気持ち。
8日目(7月23日)
7時半、QCAのバスが迎えに来る。黄色いスクールバス用のバス。すでに乗り込んでいた他の8人のメンバーもうきうきわくわく遠足気分。ガイドは30才くらいの男ゲイブと20代半ばの女の子フェレス。
バスはまず小さなフェリーで20分ほどのサウスモレスビー島へ渡る。そして1時間林道を走りモレスビーキャンプへ。途中ラジエターホースから蒸気が吹き出すアクシデント。テープで補修しラジエターに水を補給。「おいおいそれ俺らの飲み水じゃないかよ」
モレスビーキャンプでモーターボートに乗り換える。ボートの屋根にはタンデム3艇、シングル5艇のカヤックがすでに積まれている。バスから各自のキャンプ用具と11人が6日間過ごすための食料、山のような荷物を載せかえる。
V6―2.5リッター225馬力のスズキの船外機2基をつけたボートがジェット機のような勢いで160キロ先のモレスビー島南端を目指す。ドカドカと4時間走り目的地到着。人と荷物を浜におろし終えるとモーターボートは帰って行った。「Farewell
Civilization!」(さらば文明!)みんなけっこうユーモアがある。
小雨模様でみなカヤックに気が向かないので、ここにキャンプを設営することが今日の仕事となる。そうと決まるとタープを張る者、たき火をおこす者、紅茶を入れる者、いい大人が嬉々として動き出す。どこぞの「矢木沢倶楽部」や「たきぎ工場」とおんなじだ。テントを張ろうとすると「ティーファーストだよ」とカナダ在住イギリス人がマグカップに紅茶を注ぎながらぼくをたしなめる。とにかくカヤックを漕ぎたいというだけの貧しい自分を反省し、彼らのようにアウトドアを楽しむことを見習おうと考え直す。
ぽろぽろしたシカのフンを棒ではじきとばしテントを張るスペースを作る。ここは野生動物の国。ちょっと森に踏み入れてみると倒木が重なり、腐ってこけむし、その上に現役の木が根を張っている。何千何万の歳月がかかったのだろうか、積み重なった太い倒木は人の背丈以上あり、その起伏をいくつか乗り越えると自分の居場所がわからなくなってしまう。クマにばったり出くわす可能性もあるので、用を足すときもあまり奥まで入らないようにする。
各々のテント設営が終り落ち着くと、たき火を囲みガイダンスが始まる。公園当局が作っているビジターハンドブックなるものが配られる。これにはクイーンシャーロットの自然を訪れる者の心得、自然について、ハイダの歴史や文化についてが記されている。ゲイブが神妙にツアー中のことについて説明を続け、皆が真剣に注意を向ける。おもえば自分も単独ではなく複数で、しかも初対面の人間とウイルダネスを過ごすのは初めてのことである。一人旅ではまったく気にしなかった協調性の言葉を肝に命じる。
夕食はグリーンサラダ。食事はベジタリアンだと言われていたが、このにんじん、ピーマン、セロリ、いんげんまめ等を大き目に刻んだだけのボコボコのサラダにはちょっと参った。
9日目(7月24日)
テントから顔を出し雲の間に青空を見つけると、ぱっと気が晴れ感覚が働き始める。
「黒クマ発見」クリークをはさんだ対岸100mの距離。水辺に鼻先をつけ何かをあさりながら歩いている。初めて見るクマ。十分な距離があるのでこっちもあっちも落ち着いている。カメラに望遠レンズを付けている間に森の中へ帰ってしまった。
グラノーラとヨーグルトの朝食の後キャンプを撤収、カヤックにパッキング。ぼくのフネはネッキーの中ボリュームのポリ艇ナーパ。バックパッカーの身で、しかもカヤックツアーに不要なものはQCAのオフィスに預けてきたぼくは一番荷物が少なく、当然パッキングも一番に完了。と、得意顔でいたらゲイブが「それじゃダメだ、見てろ」とぼくのパッキングをさらに半分以下に押しつぶしてカヤックのカーゴルームの奥にぎゅうぎゅうに詰め込む。そして空いたスペースに大鍋や食料を詰め込む。昨日からの疑問、11人5日分の食料をいったいどうやって運ぶのかという謎は今晴れた。この圧縮技術がツアーガイドの極意なのだと納得。はじめにQCAにFRPのスリムなフネに乗りたいと注文を言ってみたがそれが無理難題であったことが今わかった。ウルトラヘビーな装備が必要なツアーでは積載能力が大きく、かつタフなポリ艇のほうが適しているのである。満載のカヤックは水辺に運ぶのにシングル艇で4人、タンデム艇で6人が必要となる重さになった。
ようやくパドリングが始まる。2時間ほどゆっくりペースで漕ぎ、小さな湾のビーチで上陸。ランチをとっているうちに風が強くなり更に漕ぎ進むのは困難と判断される。せっかく詰め込んだ荷をもう広げるはめになったが、初心者のペースに合わせるのがグループ行動の基本である。
軽くなったカヤックを漕いでみたくなり、「ひとりで漕いできていいか」とゲイブに問うと「ひとりじゃダメだ、俺も行く」との答え。自分の方が漕げるように思えるがここではガイドが絶対なのであり素直に従う。2人で漕ぎ出すとヨットを発見。漕ぎ寄せてみるとQCAの別のツアーで、乗り組んでいるのはゲイブのガールフレンドとのこと。ゲイブがそわそわとこのヨット目指した理由に納得。カヤックから見上げながらちょっとおしゃべり。なんとこのスチールのヨットはオーナーが8年がかりで自作したとのこと。感動。
キャンプに戻りたき火を囲み長い午後の時間をおしゃべりで過ごす。カルガリーから来たジムとガイ夫妻。奥さんのガイは小学校の校長先生。日本語に関心を持ち、かつて勉強したひらがな50音を思い出そうとぼくに教わる。学校でも日本語の授業を取り入れているとのこと。ジムは腹は出ているけどパワフルな活動派。多くを語らないので何者かはわからないがドクターの称号を持っている。英国人らしく格調のある雰囲気を持った夫婦。それからオンタリオから来たダグ夫妻。ダグはひょうきんなフランス語の教師。この2夫妻は子供が独立したという世代であり、今本当に充実した人生を送っているといった感じ。テキサスから中学生の娘セラと参加のデビットは心理学者。彼のこの旅の目的はカヤックよりもハイダの文化(遺跡であるが)にふれること。日本文化にも造詣が深く、神道、仏教、能といったところはぼくよりも理解している。ただ仏教で言う悟りをサトリモーメントと言って劇的に光がみえるものだと妙な解釈をしていたが。そしてシアトルから来た女性2人組。30才前後のジェーンと40才前後のベティ。2人はこのツアーのようにカヤック+文化に興味を持っていてアラスカのコディアックにも行ったことがあるとか。「自宅に自分のシーカヤックを持っている」と言うので、「ぼくも家にカヤックを5艇持ってるよ」とちょっとひけらかす。
そうこうしているうちに潮が満ちて来る。複雑な海岸線をもつこの諸島内では干満の差が大きいところで10mにもなり、その変化も見ていてわかるほどダイナミックである。狭いビーチの一番高いところに張ったテントぎりぎりまでに海が迫って来た。念のためテントを岩場に上げ、満潮の1時間をやり過ごした後再び地面におろす。
静かだったジムが突然叫ぶ。「ウェール!」見ると海面をゆっくりとクジラの背が行く。これを見つけるためにジムはじっと海を見つめていたのだった。
ジムがウェットスーツを着て冷たい海に潜りかぼちゃのように巨大なウニをとってきた。「日本人ウニ好きだろ」と勧めてくれる。有り難いことに醤油まである。さらにうれしいことに夕食にはサーモンとライスが用意されていたのだった。日本のご飯のように絶妙な水加減火加減で炊かれたものではないが、あつあつライスにたき火で焼いたじゅうじゅうのサケの切り身をのせ醤油をかけ食べる。うまかった。残ったウニはフライパンでクックドウニにされたがこれはいまいち。
10日目(7月25日)
どんよりと雲が下り霧雨。降って止んで晴れて曇ってが次々とやってくるのがこの島の天気であり、慣れてしまうと雨でもめげなくなる。が、やっぱり服が湿っていくのは、いやな気分。
キャンプをたたみ、ハイダ居住地跡のあるアンソニー島を目ざしパドリング。霧で目標の島が見えず、ゲイブのカンで進む。時々水面に奇妙なものを見るのでフェレスに聞くとウィンドセイラーというクラゲ。なんと水面上に垂直に風を受ける帆を持ったクラゲである。水面下のだ円の体に対して帆がアングルを持っているのは、方向をコントロールしてセーリングするためなのだろうか。
ハイダビレッジに上陸。なかば朽ちたトーテムポールが十数本入江の入口の向こうに広がる大海を望み立っている。海から来るものを迎えるように。力強く彫りこまれたポールは朽ち行きながらも堂々とした威厳を備えている。トーテムポールは家系のシンボルや墓であった。かつてこのクイーンシャーロット諸島には数万人のハイダが、自然の恵みとバランスをとって生きていた。1800年代の終りに1万年にも及ぶその歴史にピリオドを打ったのは、欧州人がもたらした伝染病であった。
土地と海の豊富な恵みから必要なだけをもらう生き方は、かれらに芸術性を高めるための時間を与えていた。トーテムポールのような大きな彫刻から指先ほどの繊細な彫物まで。自然をモチーフにした独特なデザインの感覚は今や広く認められ、カナダのいたるところで現代の美術として見かけることができる。そのルーツがここなのである。
森の中を歩き住居跡から離れたシャーマンケイブという岩穴を見に行く。シャーマニズム。自然を神と崇め、神の言葉を代弁する長シャーマンを持つ文化があったのだ。ここで待ってましたとばかりにサイコロジストのデビットが講釈を始める。カヤックの経験を持たない彼がテキサスから遥々やって来た目的は、このハイダの遺跡見学だったのだ。一番近い町から160キロのこの世界遺産を訪れる方法は、我々のようなウィルダネスツアーしかないということでもある。今でさえこんなに大変なのに1万年前最初の住人は、一体どうやってここにたどり着いたのだろうか。
話題は「日本にシャーマニズムはあるか」というところに飛ぶ。「うーんうーん」恐山のイタコはシャーマンのような気もするが、「うーん」答えられずに、ぼくは困った。20分もするとみな飽き講義はお開き。
ランチ後シーライオンの棲む岩場を目指す。保護区なので近づきすぎることはできない。ゲイブが厳しく注意する。海面に「ぽこっ」と浮いた人の頭みたいなのがシーライオン。次にパフィンが巣を作る島。ずんぐり愛嬌のあるパフィンがぱたぱたっと頭上を飛んでいくたび「パッフィーン!」と声を上げ盛り上がる。
そして2時間漕いで今日のキャンプ予定地へ。ようやくカヤッキングと言えるだけ漕いだ日になった、満足満足、と思いきやそこには別のカヤックのグループが先に陣取っていた。一つのビーチが許容する人間の数は、1グループ12人が公園の基本的なポリシーになっている。メンバーにやや疲れが見え始めていたが更に1時間漕ぎ別のビーチへ。
しかし、ここにも先客。なんと黒クマが夕食をあさっているところ。気を取り直して1キロほど離れた次のビーチへ。ところが、な、な、なんとここにもクマが。ランチからかれこれ4時間カヤックに乗ったままであり、ぼくもそろそろうんざりである。地図を見ていたゲイブが申し訳なさそうに伝える。「ここがダメだと更に1時間漕がねばならない」ゲイブが悪いわけではない。ここはクマの国、大自然の醍醐味と励まし合いパドリング。結局上陸できたのは8時であった。10時近くまで明るい国だから悲壮感がないのが助けである。
上陸し各々テントを設営している間ゲイブとフェレスは手早く食事を作る。笑顔を絶やさず客全員に気を配り、陸の上では朝昼晩の食事の世話、ガイドは重労働である。カヤックが漕げるというだけでは勤まらない商売である。感服。
11日目(7月26日)
キャンプをそのままにし、霧雨の中ルースコーン入江の奥までデイパドリング。巨大なオバケクラゲを見る。生い茂ったケルプ(こんぶ)の中にその枝葉そっくりのカニを見つけた。「ケルプクラブよ」とフェレスが教えてくれる。そのまんまの名前。
ランチのため上陸すると、すかさずたき火が起こされる。白い安全帽が打ち上げられていてかすれた文字を読むと「三菱重工」。昨日はハングルの書かれたウーロン茶のペットポトルを見つけた。この近くで漁をする漁船から捨てられるのか、はたまた太平洋の向こう側から流れてくるのか。
キャンプに戻ると雨は上がり日が射していた。「シャワーに行くぞ」と森の中へ入って行くと小さな滝のことだった。ここでも冷たい水に一番に飛び込むのはパワフルジム。石けんで顔と短髪の頭をいっしょに洗うと「クニヒコは簡単でいいな」とロン毛のゲイブ。久々に体を洗いすっきりしたが、連日の雨でさらりと乾いた服が無いのが惜しい。
ジムが岩場から大きなマッスル(二枚貝)をむしり取ってきて大鍋でボイルする。オレンジ色の身はボリュームたっぷり。その自然の造形物からあるものを連想したのは、ぼくだけではないはずだが誰も話題にしなかった。面白いことにひとつのマッスルに必ず一匹の小さなカニが入っている。ふにゃふにゃにゆで上がったカニをぽんと口にほうり込むと皆がおどろいた。スシのように魚介類を生で食べることには慣れていても、カニを丸ごと食べるのは初めて見たらしい。勇敢な何人かがぼくのまねをする。ゲイブなどは調子にのってマッスルに付いていたフジツボの中身をほじくり出して食べ始めた。フジツボはぼくも初めてだったがゆで玉子に似た味。
12日目(7月27日)
初日のキャンプ地に向けパドリング。岩場でクマやイーグルを目撃。ランチはゴードン島という小さい島。
なつかしい初日のビーチに帰って来ると、その前はちょうど潮の流れる時間であった。風も波もないのにざわざわと音をたて川のように流れている。
キャンプを設営するといつものようにたき火を囲んで団らん。フェレスがマシュマロを出してきた。これを木の枝に刺して焼き、中がトロっととけたところでチョコレートといっしょにクラッカーにはさんで食べるのである。温まって甘さが増したマシュマロをチョコと合わせると耐え難い甘さになる。でも焼くのが面白くて手を出してしまう。
13日目(7月28日)
町に帰る日。
朝、2日目に見た時と同じ場所でクマを見る。きっとこのクリークの主だ。カニを捕るために仕掛けておいたカニカゴには、カニの代りに30センチもあるようなヒトデがわんさと入っていた。そしてまた、ジムが30センチはあるナマコを捕ってきて「日本人ナマコ好きだろ」とぼくに勧めるがさすがにこれは辞退する。ジムはがっかりして、そやつを海に返した。
2時、次のツアーグループを乗せてモーターボートが到着。彼らと入れ替わって我々が帰路につく。ドカドカとうねりの上を飛ぶようにボートがスピードを上げる。名残惜しむ間もなく我々の暮らすべき文明社会へ向かってひた走る。
ボートの上でのランチにサラミが出る。「肉だ肉だ」とまるで野蛮人のように我先に手をだす。そんな盛り上がりもほんの一時。はしゃぎすぎた遠足から帰る子供のように無口なボートの4時間。
モレスビーキャンプからQCAのバスに乗り換え、来た道をたどり、クイーンシャーロットの町に帰りついたのは10時近かった。「まずは肉だ、ビールだ」とレストランになだれ込む。肉だ肉だと騒いでいたわりにみんなハンバーガーで満足している。
バンクーバーから小旅行で来て町で待っていたダグの娘夫婦が合流。婿さんのスティーブもスラローマーだということで意気投合すると、なんと95年にカナダのナショナルチームメンバーとしてワールドカップに参戦、日本でのレースに出たとか。その川の名前は忘れてしまっていたが。趣味で漕いでるぼくとはレベルが違った。どうりで肩がでかいはずだ。
打ち上げもお開きとなり、それぞれの宿へ。別れの時が来る。ひょうきん者のダグが、がしっとぼくの背を抱きグッドバイ。みなさんさようなら。ぼくはひとりでモーテルの部屋へ。
14日目(7月29日)
早起きし、1週間分のヒゲをそる。
日本へ帰る一人旅が始まった。1時間かけてフェリーターミナルまで歩く。11時出航、18時プリンスルパート着。あの中国人のホテルにバックパッカーレートの安値でチェックイン。スーパーでパンとハムを買ってきて、部屋で「竜馬が行く」第8巻を読む。
15日目(7月30日)
バンクーバーへの帰路は往路の海沿いではなく内陸を考えていた。鉄道にも乗ってみたかったが、便数の都合でグレイハウンドのバスにする。
バスディーポでバンクーバーまでCA$170のチケットを買い、11時発プリンスジョージ行きに乗る。道は東へつまり内陸部へ向かい、山間部を縫うように走る。ここでは思いがけず素晴らしい景観に恵まれた。海岸地域から離れると青空が抜けるように高くなる。針葉樹林をたたえ2000m以上にそびえるハゼルトン山脈。その間を流れる川と湖。この目で見たことはないがアルプスやカナディアンロッキーに劣らない眺めではないだろうか。ただ残念なことはそれらがぼくの席と逆、バスの右側の窓であったこと。
山脈を抜けると内陸の高原地帯で風景は広大な牧場や畑になる。途中何度かの小休止をとりながら11時間走り続けバスは夜中のプリンスジョージへ。この町で1泊する案もあったのだが、考え直してすぐ夜行のバンクーバー行きに乗り継ぐ。
16日目(7月31日)
となりにちょっと年増だが金髪のお姉様が座る。この夜行バスに慣れているのかクッション持参である。それを枕にしてこちらに背を向けるかっこで眠り込むわけだが、だんだんこっちに攻め込んでくるので、ぼくも背中で押し返すしかない。でもこうしてお互い同じ力で押し合っていると、ぼくにとっても眠りやすいかっこなのだった。背中のなま温かさ。言葉は交わさず、体温だけを交わし合ったバスの夜。
明るくなるとまた山岳道路を走っていた。今度は右の窓際に座っていて大正解。深い谷をのぞき込みながら岩山の高いところにある道をバスは走る。昨日とは打って変わり険しい岩山の風景。谷の底には茶色い迫力の水量の流れ。向こう側の山肌を朝日が照らす。谷底に近い線路を長い貨車がゆっくりと走っている。途中ラフト屋を見かけたが、そのラフトはバスくらいに大きいもの。日本とはスケールが違うぞ。やっぱりこの怒涛じゃ、カヤックは無理だろうなと思う。
バンクーバーの手前でパツ金お姉様は降りていった。クールに一言グッバイと残して。
昼12時、懐かしの大都会バンクーバーのバスディーポに到着。25時間1500キロのバスでの移動は無事終った。なにはともあれマクドナルドでランチタイム。YMCAに電話で今夜の予約を取り、スカイトレインでダウンタウンへ。7年前の記憶を頼りにYMCAを探し出しチェックイン。ビーチへ出て本を読み夕方を過ごす。
17日目(8月1日)
今日1日フリー。この1日の時間を作るためプリンスジョージに泊まらずに来たのだった。そしてグランビルアイランドのエコマリンでシーカヤックをレンタルし、思い切り漕いでクイーンシャーロットのポリ艇でため込んだストレスをチャラにしようというアイデア。
エコマリンで4時間CA$32で借り出す。7年前にいた教祖ジョンダウドはいなかった。ラックから一番細くて速そうなのを選ぶとネッキーのルクシャ4というFRPのフネ。ハードチャイン艇のチャイン部を面取りしたようなハル形状。乗り込んでみるとシビアなバランスとなかなか軽い走りで、こいつはすごいぞ、こんなの一見の客に貸しちゃっていいのかよってカンジで嬉しくなる。
湾の地図を渡され、スタンレーパーク沿いか大学沿いに行くだけにして波風のある湾の真ん中には行くなよと注意をされる。が、ひとりで漕ぎ出してしまえばこっちのもの、まったくお構いなしだ。スタンレーパーク沿いに出て大学側に湾を横断し、また湾の真ん中に出てダバダバの波の中を帰って来た。みっちり4時間漕いで満足。いいなあこのフネ。
今夜はYMCAは取れなかったので初日のドミトリーに泊まる。現金が底をついてきたので、夕食はこなごなになってしまった非常食カロリーメイトでしのぐ。
18日目(8月2日)最終日
朝6時にまだ寝静まっているドミトリーを出る。人気のない早朝のバス停のベンチで空港方面行きの市バスを待つ。
ふとどこから現れたのかホームレスのおばさんがとなりに座り「ねえあたしを見てよ、みすぼらしいかっこでしょ、帰る家もなく、家族もなく、温かい食事もできず、お金もないのよ」と涙無しに語れない物語りをぼくに聞かせるのだった。正直者のぼくは胸を打たれ、ポケットから昨日のハンバーガーを我慢してとっておいた2ドル硬貨を出さずにはいられなかった。
すると今度は「あなたやさしいひとね、ねえこれはどう?とっても高いものなんだけど5ドルでいいわ」と汚いセーターのおなかから美術で使う新品のエアブラシを出してきた。いらないいらない、と断っていると1台バスが来ておばさんは行き先も確かめず乗って去って行った。「ああ、しまった」ぼくの大事な2ドルコイン。2種類の金属が合わされているめずらしいものなので持って帰りたかったのに。
その後はつつがなく空港へ、そして平和なJALの機上とあいなり、機内食でしばしのプー太郎カヤッカーから会社員に戻るべくリハビリしたのだった。
エピローグ
最初にクイーンシャーロットのカヤックツアーを予約し、そこまでの行き帰りの日数をおおざっぱに見積もり、バンクーバー往復チケットを買って出かけた旅であった。結果的にはちゃんと目的地に目的の時間にたどり着いたわけであるが、往路乗り継いだ7本のバスやフェリーにひとつでもトラブルがあれば10万円を払い込んだツアーに参加できなかったのである。思い返せば本当に幸運なうちに運んだゲームだった。
20代の頃は何から何まで自分でやらねばおさまらず、現にユーコン川ツーリングはそういうやり方だったが、今回はツアー屋さんにお世話になってみた。ガイドの後を漕ぐことしかできず、食事作りにも手出しできないといったもどかしさは1週間が我慢の限度であった。
しかしこのツアーが異質なポテンシャルを持った人間どうしが出会うべき場であったと考えれば、おもしろいではないか。たとえば、ただ北の無人島でシーカヤックが漕ぎたかっただけのぼくと、ただ先住民族の文化に触れたいだけのデビットがそこで出会ってくだらないジョークで大笑いしてすごす。ほんとにくだらない一瞬である。でもそれは、それぞれのバイタリティーの糧として求めていた、素材としてのクイーンシャーロットが共通のものであったからこそ導かれた機会なのである。その代価としてツアーは十分価値があった。
漕ぐことが好きなだけであるがそれを使って世界が広がればと思う。
完
(1997 秋)