哲人通信  (2009/01/17更新)

  私たちは間違った世界に住んでいませんか?よく分からないうちに何だか変な世界を作り上げてしまったのでは?奇妙な世界に囲まれている自分とは何か?そんな疑問に迷っている人たちに読んで欲しいページです

  現在と自分が奇妙だと思わない方は、先のページを開かない方が良いかもしれません。哲学なんてヘンテコリンなものに没頭するのは、昔から「ヘンジンさん」に決まっていて、フツーの人は足を踏み入れないものです

  でもヘンな人たちにとって哲学は重要な「イキガイ」です。そうした人びとがページを覗けば、目前の世界が変わって見えるほどの衝撃を受けるかもしれません。私たちが暮らしている世界とはなにか、自分とは何かを必死に考え直したい人に、ぜひ開いて欲しいと願っています

  このページを哲人通信と名づけたのは、記憶の片隅に鉄人28号の勇姿が残っていたからかもしれませんが、なによりも一人ひとりが哲人になって欲しいと願っているからです。自分の頭で考えて納得することの極限に、どうしても到達できない世界があると知る。これが哲学あるいは思想という領域の役割だと信じてきたからです

  私自身は二十八番目の哲人になれないかもしれません、少なくとも二十七人の優れた哲人が色々なことを考え抜いてきたと認めています。もちろん数字は単なる比喩で、数百か数千か無数なのかもしれません。何を対象に考えるかではなく、必死に考えることが哲学なのだと思っています

  何も西欧近代哲学が唯一絶対ではありませんし、過去の宗教家や哲学者たちが格別に優れているという訳でもないでしょう。ただ何かを必死に考えることが、自分自身にとって欠かせないと信じれば良く、辿り着く目標を先に決めるのは愚かでしかありません

  そうは言っても私たちが暮らす世界は広大で、どこから手を着けて良いのか見当がつかないと思われるでしょう。そこで幾つかの扉を用意しております。大きく分ければ自分と世界の問題になってしまうのですが、具体的な事から本質的なものを探り出すために複数の扉を設けました。どの扉から入っても行き着く先は同じかもしれませんし、どこにも行けないで迷ってしまうこともあるでしょう

  でも真剣に世界と自分を考え直そうとする方なら、迷い続けることの重要性にも気づくはずです。簡単な結論が正しいと信じられるのであればページを開く意味はないでしょう。出口の見つからない深い混迷を感じている方こそ読者として最適だと思います。それぞれの扉は独立したものではなく、私たちと世界を結びつける狭い通路のようなものと考えて下さい

  できるだけ簡単に書く積もりですが、文章は少し難しいですし画像も図も入っていません。その積もりで読み続けていただければ、何か大きな手がかりが見つかるかもしれません。構成上、エッセイ風の記載を中心として、ともかく平易な形の導入部を設けました。さらに深く考えようという方は、文中に埋め込まれた青色のリンクから異次元を覗いてください

  既に何かを必死に考え始めた方にとって、少しでも役に立つページでありたいと願っています。読み終わると却って頭の中が混乱するとするかもしれませんが、それこそ自分の頭で考える最初の一歩ではないでしょうか。混乱と錯誤のないところに、あるいは物事を疑わないで済む方にとって、哲学は何の役にも立ちません。どこまでも疑わないで済ませられない人々にとって、哲学は避けられない宿命みたいなものです


自己とは何か

  自己とは何かと聞かれて、すぐに答えられる人は珍しいでしょう。普通の人なら笑ってごまかす疑問ですし、かえって質問した人の性格が疑われるのが関の山。でも内心では困ったことを聞く奴だとドギマギする訳です。もし子供から聞かれれば、ヘンなことを聞くなと怒り出すかもしれません。意識のある人間であれば自己の存在を疑わないのに、何ですかと聞かれると分からなくなってしまう。何とも不思議です

  無理に答えようとすれば大きく分けて二つの可能性があります。一つは伝統的な哲学が辿ってきた道で、ギリシャ以来の西欧哲学や仏教あるいは東洋哲学と呼ばれる中で繰り返されてきた回答になります。もう一つは二十世紀の後半に入って始まった生物学的あるいは医学的な解明の努力で、脳科学や認知科学(心理学)と呼ばれる範囲と重なります。二つの道筋が同じ地点に辿り着くのか、あるいは別々の結論になるしかないのか、今はまだ分からないと言うのが本当でしょう。まず伝統的な西欧哲学の流れを辿って見ます


心身二元論

  デカルトという哲学者は「我思う故に我あり」と宣言しました。私たちの感覚は騙され易いので、一つずつ嘘か本当か調べて行くと、あまりにも頼りない話ばかりです。それらを除いて行くと、疑っている自分しか残らない。だから自分を「懐疑する自己」と呼び、自己だけが信頼できる「主体」だと断言したのです。ここで主体というのは全てを認識する中心という意味で、「認識主体」という言葉を使うこともあります。全てを疑うというデカルトの態度(懐疑)を潜り抜けるのは主体としての自己(懐疑主体)しかないという訳です。彼の宣言が西欧近代哲学を大きく変え、現在の社会も暮らしも生活信条も「自己」を巡って動いているのです

  何を決めるのも自己であり、何もしないのも自己、何でもかんでも自己ですから、これを「自己中毒」と呼んでおきましょう。自己の尊厳、自己決定あるいは基本的人権という考えも自己を最初の出発点とするデカルトの「自我論」から発生していると言えます。心理学で使う意識は自己の本体と重なるもので、無意識を自己に含めるかどうか少し疑問となります

  とりあえず自己を全ての主体と最初に仮定すれば、私たちの身体は主体が出合う世界の一部となります。とくに認識という働きは身体の一部を利用して行われるため、身体は主体にとって一種の道具となります。同時に主体が認識する対象の一部でもあります。たとえば私がキーボードを叩いている時、私の内部にある認識主体は身体の一部である手指の運動を視野に捉えています。あるいはデカルトが哲学している間も座っていた椅子の硬さを尻の皮膚は感じていたはずで、彼は椅子を外部の世界と感じながら、尻の皮膚が痛いと思ったでしょう。体重を支える皮膚は常に重力を感じ続けますが、実際には外部から圧される力を認識主体に伝えて来る訳です

  結果的に身体はデカルトの認識主体にとって客体(対象)となってしまいます。一般的に私たちは身体の内部に自己がある、あるいは身体を自己と考えますから、身体が認識主体の対象だというデカルトの主張に違和感を覚えるでしょう。主体と身体を切り離して身体を客体あるいは対象と考えるのを、心身二元論と呼びます。よく耳にする自我は、デカルトの認識主体と同じと考えて構わないでしょう

  心身二元論は単純かつ強力な仮説であり、西欧の自我主義を著しく強化しました。中世キリスト教社会では、神による一元的創造を是としていましたから、自我が身体の支配者であるという二元論を排除しています。自我主義がキリスト教の教義を否定すると考えれたからです

  ところが産業革命や科学革命と呼ばれる歴史によって、デカルト的な二元論が広く流布し、疑いようのない真理と信じられるようになりました。もともと哲学思想ですから具体的な事実に基づいて証明されるものではありません。ただ西欧の近代社会にとって、心身二元論は欠かすことのできない思想でした。また科学革命の成果が著しかったことで、科学者たちの思想信条が正しいとされたのかもしれません

  とくに資本主義経済にとって、自我論に基づく個人概念が最重要な基盤を提供したと言えます。たとえばロビンソンクルーソーは、漂流先の孤島で自分以外の全てを利用し、帰国という成果を勝ち取ります。フライデーという原住民も出てきますが、単なる奴隷に近い使用人とされてしまうのです

  アダムスミスの国富論を通読するより、ロビンソンクルーソーの物語を真剣に読む方が「為になる」とされたらしく、イギリス経済人〈資本家)の愛読書だったと伝えられています。あらゆる要素を自分のために用いる、全ては自分の道具とみなすのが、資本家の論理と言って良いでしょう

  このような経済人にとって、身体も自我の道具に過ぎないと認識されたに違いありません。道具に過ぎない身体を売り買いしても構わないというのが、奴隷売買の基本的な構図でした。身体を売られた奴隷は、買った経済人の思い通りに使われたのです

  もちろん奴隷制度が消滅した現代においても、経済的な奴隷労働は継続しており、労働者の大部分は貨幣によって買われた奴隷に過ぎません。貨幣経済というのは形を変えた奴隷制度で、自由意志によらない労働を強制する手段となっています

  私たちが自由に何かをしたいと思えば貨幣が必要となり、貨幣を蓄積するために不自由な労働に従事しなければならない。これが「自由」主義的な貨幣経済の実態に違いありません。自我が自由を感じるためには、身体を売り渡すことすらあるというのが、心身二元論の基本構造だからです

  非常に下世話な例え話ですが、売春する風俗嬢の目的は、ホストクラブでの豪遊や情人との性行為だとされます。性行為での満足を得るために、自ら望まない相手との性行為を強いられるですが、自我が満足するために身体を売る行為に他ならないでしょう

  こうなると心身二元論は決して夢物語ではなく、極めて問題の多い思想だと思えてきます。もちろん二元論の欠点は古くから意識され、多くの宗教によて否定されてきた事実を忘れてはなりません。神による創造を前提としない仏教や中国の伝統思想でも、心身二元論を排している点に注目すべきでしょう(2008/01/29)


社会と個人(認識主体)

  私たちは現代文明の栄える日本に住んでいます。新幹線や飛行機や高速道路を使って忙しく全国を駆け巡っている方も多いでしょう。逆に過疎の集落から何年も外にでない高齢者もいます。足元の土地一メートル四方が数千万円もする大都会から人影の途絶えた過疎の村まで、あるいは北海道から沖縄まで私たちは各々の場所と形で暮らしています。自分自身は気づかないかもしれませんが、私たち現代日本人の生活は外の世界から見れば奇妙に見えるでしょう

  とくに生まれたばかりの赤ん坊から寝たきりの老人まで、何かに追いかけられるように毎日を過ごしています。サラリーマンの目標は社内での出世でしょうし、学生は大企業への就職に違いありません。小中学生にも有名大学に進学するようにと、無言の圧力が加わっているでしょう。女性の多くは一流企業のサラリーマンと結婚するのが夢でしょうか。でも果てしない競争に勝ち抜いて社長の椅子を手にしたとしても、明日には会社が消えてしまう時代です。たとえ管理職となって無事に定年を迎えたとしても、老後の年金は風前のトモシビではないでしょうか

  階段を昇りきると最下段になってしまう騙し絵を、フィッシャーやゲーデルという人たちが描いています。目が回る忙しさを数十年も続けてきたのに、いつの間にか振り出しに戻ってしまっている。そんな感覚を最近は誰もが胸の奥に抱えているように思います。必死に育ててきたはずの子供たちは周囲から姿を消し、妻あるいは夫といっても亡霊のように薄っぺらな影と見えるでしょう

  溢れるばかりの電気製品や雑貨に囲まれて何をして暮らして行けば良いのか。薄っぺらなマンションや建売り住宅の中に籠って、テレビに齧りつくしかないのでしょうか。一瞬でも何かを考え始めれば、底の知れない暗闇が足元に口を開くのではないかという恐怖。それならば何も考えないのが一番。そう断言できる方はページを閉じて下さい。そうしないと貴方の心に危険が忍び込んでしまうでしょう

  全てに優越するはずの「私」が、どうして惨めな境遇に甘んじなければならないのか。私たちの周囲に存在する世界は、私という存在(自我)が現れなければ、決して認識されるはずはありません。少なくともデカルトという哲学者は、自我の優先性を無条件に認めているのです。「私」が惨めな世界を拒めば、世界は消滅すべきではないでしょうか

  自我が世界を拒否する自由を持つなら簡単ですが、夢から覚めても周囲の状況は少しも変わりません。どう考えても世界が「私」より優先しているように思えてなりません。単純に考えればデカルトの心身に言論あるいは自我論は間違っていることになりそうです

  では私たちは世界に隷属し続けなければならにのでしょうか。私たちが世界を否定する自由を持たないとすれば、個人の絶対性を主張してきた近代社会あるいは近代国家も、単なる幻想かもしれません


自己と自我へ

  ここで生物学的な話に移りますが、生物学でも「自己とは何か」が議論されてきました。社会学や哲学では個人ないし認識主体と呼ばれるものが、生物学では個体ないし自己という言葉に変わります

  個体というのは物理化学的な実体を意味し、おおむね身体と考えて構いません。精神的ないし心理的な自我を含む「自己」が生物学の対象となったのは、免疫学の発展によって自己を認識する機構が身体に備わっていると主張されたからで、それほど古い話ではないと思ってください。そのため個体と自己という二つの用語が併用されてきました

  もちろん純粋な生物学では「個」を物体としてしか扱わないため、自己という概念に重きを置かない時代が続いたと言えるでしょう。自己認識あるいは自己免疫といった言葉も、自己と非自己(世界)を対立的に二分割した結果と考えられます。要するに神経学や免疫学の発展にともなって、自己か非自己かという認識の過程が明らかにされてきたと言えます。そして現在流行中の脳科学も、生物学的な認識論の一翼を形成していることになります

  ただ脳科学に代表される神経系の認識論は発展途上であり、「自己」認識については免疫学が先行していると考えられます。複雑な中枢神経系を細胞レベルないし分子レベルで解析するのは困難で、免疫学の方が議論を進めやすいという条件があったからです

  長い間、免疫学的な自己は非自己(世界)として認識されない領域と考えられてきましたが、最近の研究によって大きく塗り変えられました。いわゆる免疫機構は自己を認識する手段として維持され、非自己も自己の一部として認識されるというのです

  詳細は別書「自己と自我」を参照して頂くしかありませんが、現代免疫学の真髄は、認識の自己性にあると言っても過言ではないでしょう。実は神経学や脳科学の認識論も、自己性を示していると思われるのですが、まだ包括的な仮説が組み立てられていないようです

  世界が自己の投影であるいうのが、生物学的な了解だとすれば、いよいよ古代からの唯我論が正しいのでしょうか?我々には自我しか残されていないのでしょうか?あるいは仏教哲学の主張した「梵我一如」なのでしょうか(2008/01/30)


何のために生きる?

  私たちは「何のため」あるいは「誰のため」に生きているのでしょうか?デカルトの言い分に同調すれば、私は私のためにだけ生きることになります。外部世界に属する他者や何か物のために生きる必要などありません。あるいは外部世界を破壊しようという衝動も、十分に許されるでしょう。何しろ自分勝手な生き方をすることが、最良の選択に違いないのです

  ところが邪魔な世界は色々な理屈をつけて好き勝手な行動を取らせないようにします。最低なのは倫理規範と呼ばれる拘束で、少しでも自分勝手な行動をしようとすれば、周囲から強い批判を浴びます。場合によっては法律違反だとして逮捕、処罰されることもあるのです。こんな理不尽なことが、許されるのでしょうか。酒を飲んで車を運転して何が悪い、他人を殺して何が悪い。他人は私にとって認識される対象でしかないはずです

  こうした疑問に答えるのは難しく、カントという哲学者は解答を諦めました。実践理性批判という書物が有名で、合理的な思考を行う主体であれば、必ず同一の行動規範に到達するという屁理屈を考えだしました。もちろん彼の頭の中にはキリスト教の教義があり、まったく別のイスラム教や仏教に基づく社会や個人の行動は含まれていません

  もちろん21世紀に生きる私たちは、倫理規範の多様性あるいは多義性について、多少の知識を持っています。眼には眼をのイスラム法と、死刑廃止が推進されるキリスト教国では、同じ基準が成立するとは思えません。法律が倫理規範の体系に基づいているとすれば、倫理規範など好い加減なものではないでしょうか

  このように考えると、ルソーが提唱した社会契約論という仮説も、極めて疑わしくなってしまうのです。私たちは日本という先進国(?)に生まれ育ちましたが、国と対等の契約関係を結んだ記憶がないからです。国は勝手に税金や年金保険料を払えと言ってきますが、年金制度に参加するかどうか選択の余地があったでしょうか。あるいは日本国籍を離れて他の国民になる自由は保障されているでしょうか。どう考えても国が個人に優先しており、対等な関係を結んでいるとは言えません

  ルソーの考えも功利主義と呼ばれる英国の伝統を引き継いだもので、その背景にはデカルトの唯我論が横たわっています。さらに自由主義あるいは資本主義の流れも、功利主義と非常に近い関係にあるのです。現代の経済社会で言えば、何よりも金儲けが優先で他人の迷惑など省みない。というより功利主義的な経済人は、利他的な行動を実践してはいけないと結論されるでしょう

  言い換えれば「何のため」とか「誰のため」に生きるかという問いかけは、最初から封印された禁句となってしまったのです。もちろん宗教伝統の強い国々では、神という別の支柱が支柱があり、必ずしも利己的行動が許されてはいません。ところが近代化を急いだ日本は、すべての神を一気に捨て去ったため、自我という神しか残っていません。パンドラの箱には、最後の希望が残されていたはずですが、それすら現代日本から立ち去ってしまったように思えます

  いきなり神が出てくると、驚かれる方が多いかもしれません。問題を生物学的な観点から考えると、ドーキンスが提唱した利己的遺伝子仮説に行き着く問題と思われます。彼は個体を生殖系列遺伝子の「乗り物」と説明しました。次世代の生殖系列遺伝子のコピー数が最大となるよう、個体行動はプログラムされている。これが利己的遺伝子仮説です

  この仮説が正しいとすれば、哺乳類の一部である人類も次世代の生殖系列遺伝子複製を極大化する行動プログラムを保持しているはずです。このプログラムは、個体すなわち個人を超越していると考えられます。木村が指摘したように、群居性哺乳類の集団は一つの遺伝子プールとして機能し、個体を超越した進化単位と考えられます

  個体を犠牲にしても集団全体が生き残るほうが、次世代生殖系列遺伝子の複製数が多くなる。そうした進化の過程を辿ってきたと推測されるのです。そうでなければ集団として行動する意味がないと言った方が理解し易いでしょうか。孤立的な生活環を持つ種でも、次世代のために利他的行動を示すのが普通で、これをドーキンスは遺伝子にとって利己的な行動と呼んだ訳です

  そうだとすれば集団での行動が次世代の複製数を極大化する場合も想定されなければなりません。大群であれば外敵に捕捉される可能性が低いとか、共同作業によって食料調達の可能性が拡大するといった考え方です

  個体が掛け替えのない遺伝子をコードしているとしても、子孫を含む集団の内部には類似の遺伝子が集積している訳で、二人の親と四人の子供は遺伝子セットとして同じだと考えられます。遺伝学者は「16人の又従兄弟のためになら死ねる」という表現をしますが、集団を遺伝子プールとして見れば、個人の絶対性を主張することは不可能です

  要するに集団遺伝学という立場から見れば、個人よりも集団の存続(永続性)が問題であり、進化の単位は集団だということになるでしょう。ここに「社会のため」とか社会の規範が発生してくる根拠があると考えられます(2008/01/29)

無意味の意味   生命と富の構造


環境の論理

  エコライフ、省エネルギー、環境保護という言葉を目にしない日はありません。あるいは福祉に反対の立場を表明する勇者も見当たらないでしょう。掛け声は溢れているのに、私たちの生活は困難になるばかりですし、二酸化炭素の削減も一向に実現していません。エコカーに乗り換えたのに省エネルギーにはならないとか、ゴミの分別を徹底しても果たして役に立つだろうか。こんな疑問も聞こえてきます

  そもそも人間が生活することは、環境を破壊することと諦めた意見も出てきます。たしかに環境保護という美名の影で金儲けを企む人間も多く、エコカーの売り上げは他の産業に波及して二次的な環境破壊を呼び起こすでしょう。二酸化炭素の排出権取引といっても、途上国への投資に違いはなく、却って開発による環境破壊を惹き起こすと懸念されてもいます

  誰もが環境の重要性を否定しないのに、どうして破壊が止められないのでしょうか。あるいは危機が目の前に到来しても、国々は自国の利益のみを主張するのでしょう。環境は倫理によって動いておらず、政治力学に左右される。そう言ってみたところで、何の進展も期待できないでしょう

  環境に関する紛糾には、利益の対立という構図が見えてきます。私の生活が便利で豊かになるなら、環境の悪化など仕方ない。途上国が発展するためには、どうしても環境破壊は必要悪となります。何しろ活況悪化は「私」のみに降りかかって来るのではありません。遠く離れた赤の他人にツケが回ったところで、私の責任ではないと主張できます。先進国と途上国の対立も、個人と同じ構図が描けるのです

  最も先鋭な対立構造が、資本主義社会の民間企業で見られます。産業廃棄物を適正に処理するには多額の費用が必要となり、企業の利益を圧迫します。隠れて廃棄物を投棄してしまえば、費用を大幅に節約できます。公害企業と呼ばれた法人は、こうした論理にしたがって行動したのでしょう。社員個人は環境保護を願っていても、会社という組織の中ではでは周囲と同じ歩調を取らざるを得ません

  こうした場合、社員は組織の利益を優先して、外部で生じる環境破壊に目をつぶるでしょう。もし社員が利益を損なう行動に出れば、組織から阻害されるでしょう。同じことは自治体や国家単位でも起こります。ゴミの押し付け合いや開発をめぐるエゴの衝突は、世界中で見られる現象です

  ここで注目しなければならないのは、ある境界を設定して内部と外部を分けることです。いわゆる環境保護派は全世界の危機として環境破壊を捉えますが、現実の生活は限られた境界の内部で行われてきました。そのため人々が内部と考える領域が汚染されなければ、環境は保たれていると感じられるのです

  たとえば高速道路のサービスエリアに家庭ゴミを持ち込む人々は、町内の集積所に持ち込めなかったからサービスエリアのゴミ箱に投げ入れるのではないでしょうか。ゴミを処理する費用を自治体が負担するか高速道路会社が支払うかは、利用者の頭の中にはないのかもしれません。この場合、費用負担の面で明らかな「越境」が生じていますが、人々の意識には上らないのでしょう。自分が費用を負担せずに自由に捨てられるなら、コンビニの店頭だろうとサービスエリアだろうと同じではありませんか

  問題なのは環境破壊の「外部化」であり、現実的な境界が設定されていることなのです。たとえば国境という区分が厳然と存在する以上、環境破壊の輸出が必ず起こります。なぜなら誰にとっても内部と外部があり、内部は同じだが外部は違うと信じられているからです。この信念を前にすると、地球は一つとか、全世界に平和をといった理念が空疎な文句に聞こえて来るでしょう

  哲学者のカントが「世界市民」の理念を提唱したのは、彼が普遍的な倫理という信念に支配されていたからで、頭の中では全ての境界を撤廃できたためのでしょう。残念ながら現実の社会は複雑怪奇な境界線によって区分され、世界市民に相当する人間は存在しません

  環境破壊を防ごうとすれば、全世界は一つという世界市民的発想に浸るか、あるいは世界を限りなく小さな集団に区切って行くしか方法がないと思います。後者の方法について詳しく知りたい方は、別のページに「新農本主義とミクロコスモス」を書きますので、御参照ください(作成中)。また共同体の構造について経済人類学と生物学の立場から解析した「生命と富の構造」も、問題の理解に役立つと思います


保護の原理

  環境論理を突き詰めて行くと、境界の内部か外部かという区別に衝突しますが、境界とは人間が形成する共同体あるいは集団によって決定されます。典型的な共同体は近代国家という幻想ですが、私たちは共同体幻想によって強く拘束されざるを得ません

  そうした共同体は内部の構成員に保護を与え、その見返りに象徴への帰依を要求します。一つの典型が宗教共同体で、宗教国家あるいは独裁国家も似たような構造を示します。私たちが知る民主政体の近代国家は、これらと異なる構造を持つと主張されてきました。しかしルソーの社会契約論は皮相的な宣伝文に過ぎませんし、日常的に見聞できる現代日本も同じ共同体構造から抜け出していません

  とくに問題なのは、近代国家が要求した象徴への帰依が希薄化し、貨幣のみが共通の象徴となったことです。米国の自由主義を導入した結果、単なる拝金主義が横行するようになりました。本来の伝統的な共同体構造を破壊した上で、経済自由主義を唯一の指導原理としたのですから、当然の結果かもしれません

  ところが経済的自由あるいは市場原理主義は、共同体の形成原理である「保護機能」を崩壊させてしまいます。構成員にとって共同体は固有の神であり、保護を与えてくれる家父長原理でなければならないのに、自由競争というスローガンによって見捨てられることになるのです

  ですから医療や福祉といった社会的保護機能が次々に崩壊して行く現代日本は、国家が共同体としての役割を放棄しつつあると言えます。このように書くと、単に大きな政府論だとか、時代遅れの福祉国家論だと一刀両断に切り捨てられそうですが、日本が近代国家の幻想という耐えられなくなったのは事実です。その原因を解明することも難しくありませんが、ここで政治社会論に深入りする積りはありません。何よりも共同体が共通の神を必要とし、近代国家も例外ではないことを強調しておきましょう

  共同体が「固有神」の名で構成員の保護救済を行うのは、集団が遺伝子プールとしての性格を失えないからで、あくまで保護は内部に対して機能する構造です。境界線の外部に対しても保護救済を与えるというのは、進化生物学の立場から是認されないでしょう

  遺伝子進化が集団の内部で維持されている限り、他の集団に対して保護救済を与える理由は見出せないのです。これは環境保護でも同じですが、内部と外部の利益が相反すると見なされるからです。内部の利益は外部の不利益、外部の利益は内部の不利益と考えられのです

  たとえば厚生年金と国民年金は、拠出金の額で争い続けてきました。税の徴収と配分に関して、国家と自治体は紛争を続けて行くでしょう。私企業は国家や自治体に利益を取られないよう、あらゆる手段で抵抗を続けるでしょう

  問題は複雑で重層的な共同体の構造にあり、保護を与えてくれる主体が私たちの視界から見えなくなったことです。家族から地域社会へ、国家から地球全体へと共同体の境界が広がると、保護を与えてくれるべき主体の姿は霧の中に消えてしまうのです

  二十世紀の後半は会社と呼ばれる経済組織が、実質的な保護を与えてくれました。村落共同体から会社共同体へ、私たちは帰属を変更したと言っても過言ではありません。嫌でも毎日顔を突き合わせる、あるいは同じ釜の飯を食う間柄という点では、村落も会社も似たようなものです

  しかし会社という組織に全面的に帰属する時代は過ぎ去ったと言えるでしょう。その上、会社は本来の遺伝子プールではありませんから、保護を与える主体でなくなると、存在そのものが一気に希薄化してしまうという特徴を持っています

  では伝統的な村落や人為的な私企業(法人)に代わって、地方自治体が保護の主体となれるでしょうか。残念ながら日本の自治体は国家機構の一部に過ぎず、主体的に個人を保護する力を持ちません。そうなると国家だけが保護の主体とならざるを得ないでしょう

  ところが近代国家という社会構造は、発祥した当時から遺伝子プールとしての幻想性を帯びており、保護の責任を放棄し易い性格が備わっています。年金制度を巡る紛糾と混乱を見れば、誰でも国家を頼りにする気がなくなるでしょう

  結果的に私たちは全ての帰属象徴を失い、流浪する民となったのです。半世紀の間は戦争に負けた訳でもなく、他国民に占領されたとも思えないのですが、私たちは流浪の民として新たな象徴を創り出さなければならない立場に置かれました

  信頼できる遺伝子プールとしての家族集団に回帰するか、改めて幻想の中に共通の象徴を求めるか、いずれかの道を選択する地点に到達したと思います。さらに詳しくは「生命と富の構造」を参照してください


医療哲学随想

  どう考えても狂っている現在の日本。その中でも思想的混迷の度合いが高い医療について、少しばかり考えてみましょう。哲人通信は体系的な哲学を展開する場所ではないので、幾つかのエピソードからエッセイ風に語ろうと思います。最初は誤診と責任について考えてみましょう

  医師専用掲示板に書き込まれていた話題ですが、救急病院で当直に当たっていた医師が、高齢者の腸管穿孔を見逃したという経験です。もともと腸管穿孔は劇的な症状と所見を示すので、高齢者でなければ誤診し難い病気です。それでも一定の確率で誤診が発生し、最良の治療を行っても死亡することがる病気です。高齢者になると症状も所見も乏しくなり、名医でも見落とす場合が少なくありません

  救急指定を受けている規模の大きな病院でも、当直医は輪番制で各科の専門医が揃っている訳ではありません。眼科や整形外科の医師でも外科医として当直体制に組み入れられています。腹部外科の専門医が常に当直している病院など、大学病院でもなければ存在しないでしょう

たとえば当直が整形外科医だった場合、急性腹症を治療した経験もなく、一般的な知識しかないはずです。そこに腸管穿孔の高齢者が運ばれて来ます。当直医個人としては自信がないから診察したくない。ということで断ると、医師法に書かれた「診療拒否の事由」に違反すると非難されます

  彼の病院が公立だったとすれば、院長を始めとする上層部は急患を断るなと厳命するでしょう。下手をするとサボタージュだとして辞職を勧告するかもしれません。仕方なく診察をしたところ、大した症状もなければ所見もない。ついでに入院ベッドが満床だとなれば、痛み止めを出して帰宅させるでしょう

  ところが実際に腸管の穿孔で翌朝に死亡してしまう。こうなると家族は大騒ぎするでしょう。普段は顔も見せない親戚まで登場して、誤診だ医療訴訟だという結論に達するのは間違いありません。医師が個人的に出来る限りの治療を行ったとしても、結果が悪ければ全て医師の責任という話になります

  無理しても急患を診察しろと叫んでいた院長は姿を消し、一刻でも早く警察に告訴(異常を報告)する義務があると言い出します。何しろ自分の責任にされては困ると、全ては当直医が悪いという話になって、警察に逮捕されるでしょう。警察は医師を悪者に仕立て上げて送検すれば成績が上がり、患者の家族は民事の損害賠償請求で有利になると大喜びします。何もなくても半年か一年しか余命がない高齢者でも、誤診や医療過誤となれば数千万円が手に入る。これは笑い話ではなく、日常的に起こっている悲劇です

  ここで誤診とは何かを考えてみましょう。数十年前まで「医師は無謬」という前提がありました。無謬の医師が全力を挙げて治療しても患者は死亡します。ですから誤診があっても問題視されませんでした。専門家が最大限の努力を尽くしても、結果が悪いことも多いという諦めが、社会全体の了解となっていたのです

  神でない人間は必ず死ぬ存在ですし、病気というのは常に人智を超えた運命として発生するからです。誰でも分かる道理ですが、医療には必ず限界があり、不死や無限の健康を約束するものではありません

  ところが度重なる不祥事の報道を通じて、医師の無謬性が誤謬であると知れわたるようになりました。確かに人間である医師には限界があり、神のように永遠の生命を与えることはできません。腸管穿孔などを見逃す可能性も決して低くないのです

  それなら「誤診の責任は医師」にあるはず。これほど単純な議論はなさそうですが、現実には的外れというか非論理的な議論に過ぎません。たとえば4人に1人の確率で腸管穿孔が見逃される場合、一人の医師は一生に何回逮捕されるでしょうか。しかも彼個人が望まないのに診療させられるのです

  救急病院の体制が整っていないのは、国民医療費を削減してきた政府と官僚組織の責任です。無理な診療を要求したのは院長であり、あるいは患者や家族でしょう。診療拒否を一律に禁止しているのは、医師法という歴とした法律に違いありません

  医師としては善意で診察し、最大限の努力を払ったのに、刑事被告人として国家から訴追されるのです。掲示板には類似の事件が多数報告されており、すでに救急指定の総辞退という文字が躍っていますが、当然の結果としか思えません

  ここで誤謬ないし過誤について考えてみましょう。誤謬ないし過誤は常に発生し、経験したことのない人間はいないでしょう。警察官だろうと裁判官だろうと、自ら過誤の経験がないという人がいれば、神様として尊敬されますが、裏では「嘘つき」と呼ばれます。過失あるいは過誤によって好ましくない結果が生まれた場合、どの範囲まで個人の責任が問えるでしょうか

  西欧の法理論では、本人が違法性を認識していることが必要で、単なる過誤や認識できない結果の責任は負わないとされてきました。戦前の判決で狸狢事件というのがあり、狸と狢が別の生物と信じられていた地方で、禁猟の狸を撃ってしまった例です。本人は狢を撃ったのであり、狸を殺した積りがないと主張しました。狩猟法の規定は狸についてであり、狢には及ばないと思った訳です

  判決は無罪だったのですが、現在でも過誤あるいは過失に関して常に引用されています。この判例を腸管穿孔の例に当てはめてみると、医師は専門的な医学知識と経験に基づいて、穿孔ではないと判断したことになります。患者は胃腸炎かもしれないが、穿孔ではないと思った訳です

  結果的に穿孔だったとしても、彼の医学知識は胃腸炎を支持した訳で、第三者が後から穿孔だと鑑定しても意味がありません。彼にとって患者は「穿孔ではなく胃腸炎」に見えたからです。言い換えれば「狸ではなく狢」だと認識して行動したことに等しいのです

  穿孔だと承知した上で、患者の生死を自然に任せたのなら、安楽死かどうか問われるでしょう。しかし胃腸炎と信じて妥当な医療行為を施したとすれば、誰が医師を非難できるでしょうか

  警察官や裁判官も運転中に過誤を犯すでしょう。制限速度40キロの区間で60キロに達してしまう場合も少なくないでしょう。このような場合、彼らは意図的に法を犯したと結論できますか。あるいは冤罪事件で無実の人間を罪に落とした場合、裁判官や検察官は刑事事犯として服役するでしょうか

  専門的な知識や訓練を受けたとしても、過誤や過失がなくなる訳ではありません。無謬ではないとされた医師は、当然ながら過誤を犯すのであり、その責任を全て個人的に背負わせるなど荒唐無稽の暴論です

  キリスト教の聖書には「過ちを犯したことのない人々のみ、他人を非難する権利を持つ」と書かれているそうです。もちろん原典に当たっていないので、いい加減な引用ですが、言わんとしていることは分かります。誰も過誤を犯す以上、他人の過誤を一方的に非難する資格はないと考えるべきです。とくに裁判官などは偉そうに屁理屈を捏ねるべきではないと思いませんか

  安楽死事件を巡って、裁判官が人工呼吸器の停止条件を決めるのなら、自分の手で気管チューブを抜くべきだという意見があります。後から医師の行動を非難するより、自分で患者の死を決めるべきではないでしょうか。自分で決めて実行するだけの能力と経験があるのでしょう

  これは単なる嫌味ではなく、専門性とは何かの基本的な問題を含んでいます。自分の生命を医師に任せるのか、法律家に任せるのか、非常に単純な選択の問題です。もし医師よりも法律家の方が信頼できるというのなら、医療という専門領域は存続できません。そうした選択を社会が行うのであれば、医師を養成する必要などないと結論できます。文化大革命期の中国のやクメールルージュのカンボジアで、医療あるいは医師を追放した結果、どれほど多くの人々が死んだか思い起こしてください(2008/02/03)


新農本主義へ

  街角農園の実践から発展したした理論。熊沢蕃山の水土思想を参照しつつ、独自の現代化を図った。ヴェブレン以来の消費社会あるいは資本主義的な市場原理主義から、必要性に応じた生産と仕事の社会へ、新たな展望を示したい

  西欧で構造主義と呼ばれる思潮は、必然的に農本主義的な社会制度に帰着する。なぜなら構造主義は非貨幣的な社会構造を認め、価値の生産について考察しているからだ。人間が物を作り出す意味とは何か。単に貨幣と交換するために生産するのではない。マルクスが労働の疎外を論じた時、彼も非貨幣的な価値の存在に気づいていたようだ

  農本主義は単に農業生産のみを正当と認めるのではなく、あくまでも社会の構造として非貨幣的な生産の必要性を示す。閉鎖的な小集団を想定して、内部の充足を目的とする労働あるいは生産を目指す運動である


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